意味をあたえる

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山下澄人「壁抜けの谷」

タイトルの本を昨日読み終わった。とちゅうはとにかく様々な人が大した説明もなく次々に現れたり現れなかったりしたから前後が不覚になり、「どうして私はこの小説を読み続けるのだろう」と考えたりした。それは過去の積み重ねなのだった。しかし過去というのはどうでもいいからいつも「もういい」というところまで読んでやめた。言葉じたいは易しいから、いつもある程度の量を読むことができた。いつのまにか残りの分量が少なくなった。ラストほうに来て、とつぜん答え合わせのようなものが始まり、○○と△△は親子であり、とか主人公はこういう状況でしたみたいなのが明らかになり、そういう展開になるとすいすい読める。なるほどねー、と思う。しかしこれで良いのかと思う。ラストの答え合わせ小説といえば、私の中では舞上王太郎が挙げられる。私が初めて読んだ舞上の小説は「世界は密室でできている」で、確か女の子が家の屋根から飛び降りてそれは自殺ではなかったがしくじって膝の骨が肉を突き破って顎に突き刺さる、という描写を読んで、私は
「文学だ」
と思った。その頃はもう阿修羅ガールとかも出ていたから私が認めるまでもなく、世間ではそういう位置付けが済んでいたが。阿修羅ガール三島賞を穫ったのです。それですっかり魅了されて、何冊も読んだが、今こうして書くと私がグロいもの=文学と思っている節もありそうだが、そうかもしれない。人が死んだり、セックスという出来事が生々しく描かれると、それは文学と見て間違いない。あっさり死んだりするとそれは赤川次郎である。私は中学高校の頃は赤川次郎の「天使と悪魔」シリーズが好きだったが、それから何年かして久しぶりに赤川次郎の小説を読んだら開始二ページ目くらいにいきなり人が死んで、あまりにあっさり死ぬから清々しい気分になった。

とにかく舞上の小説は説教くさいことに気づいた私はやがて読むのをやめてしまった。ラストのほうでうまくまとまると胡散臭い。そういうばサンシャイン池上という芸人の動画をこの前見たが、フリップを用いた芸をやっていたが、途中からめくってもめくっても「イエーイ」の連続で、やがてオチに行くのかと思ったら途中で紙がなくなってしまってそこで一笑い起きた。私はそこからフリップで最初に触れていた話に戻らないといいなあと思っていたが、やっぱり戻ってしまった。筋、と呼ばれるものがこの世にはあるが、筋は流れを阻害する。空気を壊すというか。もうめくる紙がなくなった瞬間、舞台上にはある種の空気ができていたから、私としてはそれにぴったりの動きとか言葉を期待したが、多くの人はやはり「で?」というぶぶんを求めた。いや、知らない。サンシャイン池上が勝手にそう解釈しただけかもしれない。池上は先人たちの教えを守っただけなのだ。

私は山下澄人の「壁抜けの谷」にそういうまとめをかんじ、確かにすっきりするぶぶんもあったが、これでいいのかという気持ちもだいぶあった。答えを手に入れ、今度はその状態で読んでみようと最初のページをめくったら、私が最初に読んだことが書き換えられていた。私はこんなものは読んだことがないと思った。しかし読んだことはあり、どういうことなのかというと、山下澄人の小説では以前でも冒頭の文章がとちゅうにそのままコピペされて出てくる場面があり、そういうとき登場人物が別の人物に 「読んでみ?」
と言って始まるから、これは一種のメタフィクションだ。今回は「読んでみ?」とかなく、いきなり冒頭がコピぺされたが、私はそうとは気づかなかった。だから再び読み始めたらさっき読んだところが登場してきて、
「私がいちばん最初に読んだ冒頭はこうではなかった」
と強く思った。だから誰かが書き換えたか、本をすり替えたのである。それは楽しいことだと思った。何ページか読み進めたら、
「やっぱ読んだわ」
と思った。