再び「モンテ・クリスト伯」を読み出し、埋められた子供のくだりが出てきて、これはレヴィ・ストロースに出てくる構造というやつだろつかとかんじた。埋められる子供についてずっと前にどこかで読んだことがある。可能性としては3つ、村上龍「コインロッカーベイビーズ」舞上王太郎「煙か土か食い物」中村文則「土の中の子供」のどれかか複数である。中村文則はたまたま家にあって、タイトルがそのまんまだからここにあげたが、内容はまったくおぼえていない。昔「本が読みたい」とバカ丸出しの友達に貸したら「鬱になった......」と言われ返された。私はとても良いことをしたと思った。私は極めて保守的な文学ファンだから、おいそれと間口を広げるわけにはいかないのである。そもそも鬱になりながらも最後まで読むという姿勢が文学には向いていない。「無理だ、こんなじゅくじゅくしたの、読めるわけない」と投げ出す人の方が、矛盾しているが文学に向いている。
舞上王太郎については、埋められたのは母親のような気がする。あるいは次男の二郎が幼い頃に埋められ、それが遠因となってサイコパスになった話だった気がする。埋めたのは父親で、そういうのが構造っぽい。残るは「コインロッカーベイビーズ」で、これはコインロッカーに捨てられた子供たちの話だ。私は実はこの小説は下巻のとちゅうで読むのをよしてしまった。「限りなく透明に近いブルー」もそうだが、読んでいると精子が出涸らしになっても尚性行為をしているような気持ちになるのである。まんまそういう小説なのである。それはエロいシーンだけでなく、暴力的なシーンでも含まれる。北野武が最近の自身の映画に性描写がない理由を訊かれたときに、「セックスは死とつながるから」みたいなことを答えていて、ふうんと思った。今あらためて思うと割と単純な発想だが当時は意味ありげに聞こえた。「コインロッカーベイビーズ」については、主人公が指圧で相手の眼球をつぶすシーンがあり、そのとき「パシャ」という音がした、というのが気持ち悪くて今でもおぼえている。