意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

会話

小説の会話のリアリティについて私は思うことを書くがまず初めに思いついたのは小島信夫の「寓話」であの中で小島と森敦の会話が出てくる。森敦も実在の人物で小島と「寓話」の内容「あそこが傑作だったね」みたいな話をする。本の中でタイトルと同名の本が出てくるときというのは一般的にそもそも本のタイトルが本そのものを指していなかったりまたは本の中の本はまったく別物だったりして数学で言うゼロ除算とかなんとか参照を避けようとするが「寓話」に出てくる寓話はそのものである。じゃあどうやって矛盾を避けるのかというと寓話は雑誌に連載されていたので前月号の内容について二人は話すのだ。考えてみると単純な原理だがこういうことを大真面目にやっている小説は読んだことがない。「コロコロコミック」とかだとマンガの中でその漫画を読んだりしている描写が出てきてアハハとなる。しかし寓話はアハハとならない。奇妙な小説である。


二人が電話で「寓話」について話をしていると森敦のほうに来客があって「ちょっと待っててくださいね」となる。しばらくして戻ってくると「宅配便でした」と言う。そして二人はぜんぜん違った話を始める。リアルな会話とはそういうものではないかと思う。小説やフィクションの会話を読んでいるとどうやら登場人物が自分が登場人物であることを自覚している風にかんじる。たとえば私はけっこう耳が悪いから相手の言葉の意図をくめずに何度も聞き返してしまうことがあるが話の中の人たちはいつだって意味をもらすことはない。逆に聞こえないときはとことん聞こえないという具合なのである。どうして100か0になるのかというと伝えるほうの内容がメッセージ性満載だからである。だから伝わるか伝わらないかみたいになる。


私たちは実生活において確かに物語の主人公のように振る舞うときもあるがときには神のようにというか万物そのもののように振る舞うときもある。フィクションの会話はそういう視点が欠けているというか欠けないとフィクションにならないと思っている節がある。私もそうだ。だから自分がいざ小説を書こうとするとどこから嘘をつこうかみたいなことを気にしてしまうしまたブログを書くときには嘘を書くと申し訳ない気持ちになってしまう。調子がいいと嘘がばんばん書ける。事実と違うことを書きながら事実のほうがねじ曲げられる瞬間が気持ち良い。