意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

サラリーマンと死

サラリーマンを10年以上やってそれが板についてきた。特にこの一年は人にあれこれやらせる業態となって春となって春は面談という差し向かいでああだこうだという季節になった。後輩が「こんなことをやる意味がわからない、もっとすべきことがあるだろう」みたいなことを言って私は笑いながら「俺だって馬鹿らしいと思いながらやってるよ」と仲間ですアピールをしたが後輩から見たらたぶん滑稽でこの人なんにもわかってないなあすっかり会社の犬だよなあとか思っているんだろう。私はおもしろくないからそれじゃあと私のブログのアドレスを教えて何記事か読ませればああこの人けっこうクレイジーだなと一目置かれる気がしたがこの人は活字をあまり読まないようだしただの変態と思われて終わりそう。


昨日まで義妹が子供を連れて泊まりに来ていて私は子供のダンスをまねているうちにジェット気流に飲み込まれるみたいな動きをして遊んでいたら義妹が「うちの旦那もこんな風に愉快ならいいのに」と言ってそれは私の妻に言ったから私は妻から聞いた。妻は旦那をフォローするために「堅物そうだけど意外とお笑い好きなんだよ」と私に教えたがどうしてお笑い好きの頭に「意外と」と付くのかわからない。現代人でお笑い好きなことが意外な人がいるのだろうか。例えば岡本太郎だとかそういう人が「お笑い好き」と言ったら少しは意外性を感じるかもしれないがそれこそサラリーマンを10年やった人が「お笑い好き」と言ってもそれは典型的な人でしかありえない。しかも「世界の果てまで行ってQ」が好きですとか言うが日曜八時のサラリーマンの最大公約数的番組が好きとか嫌いとかそういう評価の対象になること自体が私からしたら意外だ。人はむしろあれの面白さを理解できないことを誇るべきではないか。私の妻はあの番組の出演者を見て「この人の人生はさぞ幸せだろう」と言いそれはどう考えても思慮が足りないがよく将来歌手になりたい芸能人になりたいという人が「なんとかになって夢を与えたい」と言うがこれはまさしく夢を与えられている瞬間なのである。私はもちろん夢などノーセンキューでましてや「与える」なんて上から来られたら全力で阻止したいがやっぱりサラリーマンだから「ちょうど欲しかったところです」なんてニコニコしながら受け取っちゃう。


とにかくお笑いが好きだという人はすっかり人を笑い飛ばすことに馴れてしまっているからそういう人が自ら愉快なことをするのは無理だと思う。せいぜいテレビで「面白い」とお墨付きを与えられたらことに追従することくらいしかできない。そうやって相手に「ここが笑うポイントですよ」と手取り足取り教え相手は引きつった笑いをする。私はそりゃ行ってQを見て大笑いするがやっぱりどこか馬鹿にされたような気になる。私の子供などは大好きで何度も巻き戻しながら笑い転げているが子供で人生経験が少ないから楽しくかんじるんだろうなと私は思いながら見ている。何にしても家族が愉快そうにしているのは良いことだ。私は引き続き人間の生き死にについて考えていきたい。