意味をあたえる

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自由と平等

小学一年か二年のとき二時間目と三時間目の間の業間休みのとき一部のグループがボールを用いた遊びを行っていてやがて休みが終了となり複数の生徒は教室に戻ったがボールは取り残されたままとなり教師はそのことを咎めた。教師の主旨としては「ボールは出した人が片づけなさい」というものでそれを聞いた彼は今となってはもうどんな感情だったか思い出せないがそのことを彼の両親に報告した。両親は
「それは間違っている、ボールは気づいた人が片づけるべきだ」
と教師の論が間違っていることを述べた。彼は両親に報告したということは彼なりに腑に落ちないぶぶんがあったのか。彼は両親の子であるからそういう反応が感情レベルにまでいかないぶぶんであったのかもしれない。しかしそれがそれから30年以上も経った今でも考え続ける事項になるとは思わなかった。彼としては両親の言う「気づいた人は」というのは理想であり限に自分の利を最優先にして見て見ぬ振りをする人もいるのだから誰かひとりを担当としてしまったほうが総数として漏れは減る。責任とか担当という言葉は人間の性悪説に基づいて生まれた言葉かもしれない。学校とは管理されることを学ぶ場所ととらえれば教師がいちいち「ボールは出した人が片づける」と指導することにも納得がいく。学校はいつも係だとか委員だとかが大好きだ。そういえば小学一年のときには「ボール係」というのがあった。体育だか遊びのときにボールを管理するのである。誰がやったかは知らないが今でも彼の脳裏には赤色ドッヂボールを両脇に抱える体育着姿の児童が浮かぶ。彼はボール係が不憫で仕方がなかった。彼は今でも例えば「泣きながらケーキを食べる」みたいなのに弱い。


今読んでいるサピエンス全史という本に「人間は矛盾を受け入れる」みたいなことが書かれていてその前に「自由と平等は矛盾している」とあって驚いた。驚いたのは矛盾していることではなく矛盾していることに今まで気づかなかったことだった。彼は自由と平等は普通に両立すると思っていた。どちらも比類なき良いものと思いこんでいたからである。良いもの同士は足を引っ張り合わないと思っていたからである。こういう書き方ではなかったかもしれないが本では「人類の歴史は思い込みの歴史」とあったから私は思いこんでいた。過ぎ去ったなんとか主義とかは私からすると理不尽極まりないものであったが自由も平等も民主主義も百年とかしたら「どうしてあんなことを」となるのだろう。私は民主主義はともかく自由や平等よりも良いものが想像できないが。私はなるたけフェアに振る舞うことを良しとしているが少なくとも歴史に対してはフェアではなかった。


上記の「思い込み」がはがれかけるときは過去に確かにありそれは金持ちがあるときに「どうして自分の力で稼いだ金を税金というかたちで養わなければいけないのか」という書き込みがインターネット上にありそれは紛れもなく平等によって侵害された自由であるが当時はそういう捉え方はできなかった。