意味をあたえる

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本を読むときなにを考えるか

他のブログで有限の生ならば面白い本のみ読みたいというのがあってずいぶんと大仰な読み方をなさるなあと思った。面白い本のみを読むというのは極めて効率的な発想である。私は「これを読んだらおりこうになっちゃうな」と思うときもあるがそいうときは途中で読むのをやめてしまうことが多い。面白いというのは客観的な評価でありゆるぎないものだが私のほうがゆるぎあるのでどんなにやさしい本でも読めないときは読めない。この前雑誌で保坂和志の小説を読んだら川端康成伊豆の踊り子が出てきて無性に読みたくなってあれは短編だからダッシュで読めばひと息で読めるなあと思った。長い小説だとおそらく読むうちに保坂和志の影響が薄れ100パーセント自分の意志で読む形になるがダッシュで読めば衝動のみで乗り切れる衝動とは自動運転とか動く床のようなものでそういえば私が初めて動く床に乗ったのは池袋のサンシャイン60ではなかったか。エスカレーターは知っていたが平坦な道まで勝手に動くなんて都会の人は大変欲が深いと感心したものである。魚は埼玉と同じであった。埼玉の魚は川魚ばかりで川魚はとにかくなんでも泥臭くて田舎くさかった。埼玉の水族館は父に連れて行ってもらった。羽生というところである。私の両親は父が埼玉出身で母が東京出身だった。母のほうがひとつ年上で背も母のほうが高い。母が特別背の高い女だと子供の頃は思っていたが小五で父を追い抜くと父が特別背の低い男なんだと気づいた。私は長い間年齢と背丈は比例関係にあると思いこんでいたから長い間父の背の低さに気づかなかったのである。しかし父は背こそ低いが態度が大きいので態度の大きい人というのは背もそれなりに見えるのである。だから実際父は153センチしかない小男で車を運転するとシートのシルエットに頭まですっぽりおさまってしまい遠目に見ると自動運転の車のように見えるのだが父は存在している。しかしだいぶ老いた。もう長いこと父の運転する車に乗っていないがだいぶもうろくしたのではないか。関越で100キロだか110キロ出して速度メーターをキンコンキンコン鳴らしていたころが懐かしい。