意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

年に数度は純粋だねと言われる

朝日新聞の記事でPTAのことが出ていてそこには役員だとか負担だし無駄だしそもそも任意加入なのだから色々変えましょうと提案したら役員経験者に「自分より楽をするのが許せない」からと反対されておじゃんになったというのが出ていた。それでコメントにはこれが日本の醜さであり普通は自分が苦労したら後の人には同じ思いをさせたくないとなるものだと出ていて私は「許せない」と思うのは少数なのではないかと思った。しかし少ししてそう思うのは私の買いかぶりで実のところほとんどの人は自分ほどの苦労を他人がしないとずるいと思うのかもしれないと思い直した。PTAじゃないが私も似た経験が何度かあった。おかしいと思うことを正々堂々みんなの前で言ったら孤立した。さすがにこれに文句を言う人はいないだろうと思ったら総スカンだったので唖然とした。しかし後から「君の言ったことはもっともで自分も同じことを考えていた」と言われたりして私は気持ち悪いなと思った。相手を軽蔑の感情を抱いたが今になって振り返るとそれが多数というものではないかと思った。なんにせよ間違っていることを間違っているというだけでは始まらない。いや始まったのか。誰かが「同じだ」と思ったらそれは変化なのである。しかしそれを評価する人はおらずそもそもの提案者も評価を求めるから頓挫する。


私は「孤立しない正義」について少し考えたがやはりそれは多くの場合馴れ合いであり調整であり焼き直しであり後付けの正義である。逆に孤立すれば正しい可能性が高い。私は年に数度は「純粋だね」みたいに言われそれは決して褒め言葉ではないから私の態度はかたくなるがそういえばブランキージェットシティが「イカ天」という番組で素人バンド対決に出たとき相手がセクシーな女性バンドで司会の三宅裕司が「相手のセクシーさに何で対抗する?」と訊ねたらボーカルの浅井健一が「正義」と大真面目な顔をして答え本当に格好いいと思った。ちなみに対決は複数あって確か初登場のときは審査員が大絶賛でひとりが「ボーカルは顔がポールサイモンに似ている」と言ったら浅井健一は「ボブディランに似ている」と返し審査員は「そこまで言う」と突っ込むと浅井はそのときは笑った。その頃ボブディランは少しは悪に染まっていたということか。


私はそういうのの影響を受けているから一部の人から純粋だと思われてもそれは仕方のないことなのである。