意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

石の思考土の思考

よくわからない夢を見てもうそれを跡形もなく忘れてしまったのはとらえどころがなくて記憶のフックに引っかからずに落ちていってしまったからだろう。よく夢を見た直後にはこの出来事を覚えておくのはたやすいことだと思うが夢は夢で現実と遮断されているから早い段階でどこかの現実と結びつけないともうそれきり思い出せなくなってしまう。たとえばテレビの有名人の名前が思い出せないのは正確には結びつきが見つからないからなのだろう。


叔父が死ぬことを考えた。これは夢ではなく現実の話で叔父は癌である。癌であるが入院もせず仕事もしている。自営業であるから動くも休むも融通がきいた。病院の文句ばかり言ってる。手がしびれるとか寒いとか言うが外見には病気のようには見えない。突っ込んだ話をしないからステージがいくつかとかわからない。当分死なないように思える。叔母は猫を飼っている。息子が二人いて二人とも結婚をせず職を転々としている。話を聞くと私でも続きそうにない。鹿児島の事業所にフェリーで自家用車を持ち込んで営業だとか聞いただけで無理だ。しかし当事者ならばどうにかせねばと思うだろうしどうにかなるだろう。でも長い船旅のあいだに半分洗脳にかかった状態でしんどいときは誰に泣きつけばいいんだろうとか考えるのは惨めで仕方ない。たとえば同期だとかが同じ境遇で同じ船にいれば少しは気が紛れるだろうがそれでもひとりでいたいと思うだろう。私は山育ち平地育ちだから海を見ると心細いのである。


叔父が死んだら土くれのようになるのだろう。舞上王太郎のデビュー作は「煙か土か食い物」であるがそれはお婆ちゃんが頭に「死んだら」とつけて話す言葉がタイトルになったのである。私たちは煙か土か食い物である期間のほうがずっと長かったはずなのにどうして生に固執するのか。宇宙とか考えると生きているほうがイレギュラーなのである。それなのに土や石のように考えられないのはなぜなのか。考えるというその行為からして生きている者の発想だがこれ以外のあらわし方は生まれ出るときに忘れてしまったのだ。