意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

推敲は楽しいけれど

私は少なくともここで書いている文章については後から書き直したりとかはしていない。それはある種の効率を求めた結果でありそれは手直しして水準を上げるよりも一から書いたほうが総量としての面白さだとかが増すと思ったからである。私はなるべくなら例えば読んだ誰かが批判的な反応をしたときに「言いたいのはそうじゃなくて」という反論をしたくなくもちろんどうしてそんな取り方をするんだという批判を受けたこともあったがだから私は基本反論はしないようにしている。口を開くと「ほらここには○○と書いている。よってあなたの主張は的外れである」とか言いたくなってしまう。それは褒められた場合も同じである。書いてあるからセーフみたいな書き方は仕事だけでたくさんなのである。そういうエビデンスどうこうよりも私は印象を大事にしたい。だから的外れでもその人がそうだと言えばそうなのである。そういうスタンスがどこまで通じるかはわからないができるだけ続けたいのでそうなると次第に人の反応に取り合わなくなる。


とは言え私は推敲という作業は好きである。思うにみんなが好きじゃないかと思う。しかしそれは雑用の楽しさではないかという気がする。私は最近雑用が楽しい。時間がかかればかかるほど嬉しい。それは雑用でない頭を使わない仕事を先送りにできるからである。つまり推敲とは頭を使わない作業である。