意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

小説的(3)

小説的 - 意味をあたえる

小説的(2) - 意味をあたえる

私がなんでこの文章を「小説的」というタイトルにしたかということについてなかなか触れる機会がない。タイトルというのは砂漠の蜃気楼のようなものですぐ近くにあるようなかんじがするが一向にたどり着く気配がない。書かずに済めば良いと思っている節もある。笹田の犬の話は確実にタイトルにつながる話だと思ったが書き終わったあとにブロガーのoさんが自分の犬のことを思い出してそれを記事に書いた。それを私に知らせてくれ(あまり関係ない)と注意までしてくれた。荒々しい犬の写真が数枚貼られており私は自分の子供のころに見た野良犬のことを思い出した。野良犬は私の家の庭に入ってくることがあって入ってくると雨戸を閉めていても気配がわかり臆病な私は怖かった。私が一番窓際の席だったのである。窓は掃き出し窓という大きな窓でドアの役割も果たした。祖母や父の行きつけの焼鳥屋の親父が出し抜けに顔を出すことがあった。犬もいたしあと知らない子供が入ってくることがあった。私の家の庭がどこかへの抜け道だと思っていた。自転車で入ってくる。私の家の庭に自転車の轍ができた。彼らは行き止まりだと理解すると引き返した。庭は芝生が植えてあったがだいぶはげていて土が露出し彼らが行き過ぎると土煙が立った。彼らのことを私は全く知らなかったが子供は子供が住んでいる家というのがわかるのである。そうしてここは入って平気な家と判断する。私も人の家の塀によじ登ったり壁にサッカーボールをぶつけたりしたがそこは子供の住む家だった。向かいに意地悪な姉妹が住んでいて私に手錠をかけたことがある。姉妹はどこかへ引っ越してしまった。あとは豚みたいな主婦と猫を飼っている女の人とうるさいバイク乗りとバイク乗りと猫を飼っている人は夫婦だった。夫婦には子供がおらず私はたまに遊びに行った。ファミコンがあったからである。そこでドラクエ3をやってナジミの塔に至る洞窟でギブアップした。


笹田の犬が危篤になってそれを同僚に話すと鴨志田くんが
「まあ犬はそうですよね。犬が死ぬと悲しいけど虫が死ぬと悲しくないのは不思議ですね」
と言い私は小説的だと思った。私は犬を飼ったことはないが犬と虫を同列に語るのは不自然だとわかっていた。私もカブトムシを飼ったことがあるがある朝動かなくなっても死んだとしか思わなかった。虫かごの下に敷いたおがくずの中にとても小さな羽虫がいてそれがカブトムシのお腹や内臓を食べてしまうのである。残るのは角とか背中とか固いところのみで私はしみじみ「虫とはスカスカの存在である」と思うのである。犬を食う虫などいないだろう。だから犬が死ぬと悲しい。鴨志田は虫には感情がないから悲しくないと分析したが虫だって怒ったりするだろう。蟻も怒るのだから。


秩父で腹以下のない頭だけのカブトムシというのを見たがあれはどういう病気なのだろうと考えた。秩父の父の友達の家に何泊かしてそこは家の人が自らが建てたログハウスで私は中二階があることにウキウキした。さらに家の中を案内され
「ここはまだ作りかけなんだ」
と言った先の通路が途切れていてなおウキウキした。私は大工になりたくなった。なりたくなったというのは当時の私ではなく今の私である。蝶番などないいちいち持ち上げて開け閉めするドアとかあったら素敵ではないだろうか。