意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

町田康

町田康という小説家を知っているがまともに小説は読んだことはない。図書館で「告白」をぱらぱらめくった程度だ。以前は町田町蔵と名乗っていたことも知っていてそれは吉本ばななの著書に出てきたから知った。保坂和志と一緒に文学賞の新人賞とかやっているから顔も知っている。すっかりお馴染みなのに著書は知らない。人さえ知れば何冊か読んだことと同じことと思っているのだ。たまたま職場で町田康の話になって同僚は「まちだやすし」と言いそういえば「やすし」なのか「こう」なのか知らないことに気づいた。私は普段の生活の中で小説家の名前を声に出したことがないから漢字が読めなくても不便はなかった。周りと小説の話をすることなど一年に一度くらいしかないから不便はなかった。たまに偶然そういう話になるときもあるが私は人と小説や小説家の話をするのがあまり好きではない。もっと言うと自分の話をするのが好きではない。そういう話をするのは気持ち良い・気持ち悪いで言ったら気持ち良いになるが気持ち良いことがすなわち好きとは限らない。それは他人の話す自身の話がたいていくだらなくてうんざりするからである。


ところが文字だとどうだ。私は毎日自分のことばかり書いている。好きな小説や昨日なんかは自分の職場の通勤路が何通りあるかまで書いている。とくにブログを始めたここ三年で私はずいぶん文字寄りの人間になって音声を用いた自己顕示を行わなくても平気なふうになってしまった。