意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章力の筋トレと重量上げ

もっと一杯舞って頂戴 - 母父トニービン

昨日あじさいさんのブログを読んでいたらタイトルの言葉がでてきて気に入ったので使わせてもらいます。そうやってムキムキマッチョになった先には何があるのだろう。


こうした物書きの運動への比喩は無理があると思っているが「走り込み」だけはなんとなくわかると思っているがそれは村上春樹が言っていたからという理由だけでその記憶がなければ「走り込み」も無理あるとかんじる。逆に村上春樹が「文章の重量上げ毎日欠かしたことはありません」と言ったら私は賞賛するだろう。私はミーハーなのである。


一方で私はズレをかんじる。ズレとはよく匿名の記事などに「素晴らしい文章」という褒め言葉が記されることがあるが私は何が素晴らしいのかよくわからないことが多々あるのである。私はたくさん読み物をしたからそういう感覚が麻痺しちゃったのかもしれない。てにをはがしっかりしているのが良い基準なのか。もしかしたらこういうのを「しなやかな筋肉のような文章」と表すのかもしれない。でもやっぱり私は村上違いの村上ポンタ秀一(ドラマー)の「表現はアスリートじゃないんだから絶好調ならいいってわけじゃない」という言葉を信じたい。信じたいというか。私はものを書く(たぶん表現全般)行為は自分でどうにかしようとするものじゃないと思う。がんばったから一等賞というものじゃないのである。


プレバトという番組の俳句コーナーで俳句の指南の先生が「言葉の省エネ」みたいなことを言うがこれは絶対おかしいと思うがテレビだから「ここはこうすればOK」みたいな構成にしないとダメみたいなのがあるのかもしれない。番組によればより積載力のある言葉のチョイスを心がけろというのである。それこそマッチョな文章で家一軒分の荷物を運べというのである。それはあまりに三次元的に考えすぎではないか。いくら見るからに大きな荷物を運べるとしてもそこにまだ見ぬ五次元六次元をかんじさせないとどこまでも貧しい言葉選びになってしまうのではないか。「かんじさせないと」というのはいかにも手垢がついた言い方だから言い直したいが思いつかない。


多くの人にとって比喩とは目的地に効率的にたどり着くための手段なのだろう。100分で名著の三木清「人生論ノート」で伊集院たちが「戦時中だからこういう回りくどい言い方をするのだろう」と語っていてじゃあ逆に平時に書かれたらもっとストレートな物言いになって相田みつをみたいになってしまうのだろうか。「人生論ノート」は何十年前に書かれたが「今の私たちに通じるものがある」と言われていてしかしもしそれが相田みつをだったら同じように思えるのだろうか。私たちがそこに「今」をかんじるのだとしたらやはりそれは内容ではなく「回りくどさ」ではないかと思う。あるいはわかりづらいから人によって解釈が異なり勝手にその時代にチューニングさせているだけではないかという分析も可能だがわかりづらさそのものが敬遠される時代もあるだろう。そう考えると迂闊に「特高に見つかるとヤバいから雲に巻くような書き方をした」という評価は浅はかである。たとえ著者自らが「わざと回りくどく書きました」と表明しても同じである。同じだとけろっと言えるのは書くことは自分でどうこうするものじゃないと思っているからである。