小説という伝え方-2 - takumi296's diary
私は匠さんの文章が好きでいろんなブログを読んでいると退屈なものがありそういうときは読んでいてもほとんど読み飛ばしてしまい内容がまったく把握できていないということがあるが匠さんのばあいはだいたい残る。ひとつの理由として淡々としているところがあり上記の記事でも自身を凡庸な書き手と評しながら後半では若い頃は感性が豊かだったと言っている。そういうニュアンスで書いてはいなかったが自分についてプラスの評価をきちんと書いて尚且つ嫌みじゃなく書ける人は少ない。向上心をもつことが美徳とされる世の中のせいなのか人々はたいてい自分のどこが劣っているか何を持っていないかをアピールする。たまにいかに自分がすごいかを過剰にアピール人もいるが過剰な時点で劣等感のかたまりであることが透けて見える。たまにネガティブさがものすごい光を放つが誰もが太宰治になれるわけでもない。
記事の中で優れた作家はテーマを絞り込んでいるとあって知っている小説家を思い浮かべてなるほどそうかもしれないと思った。山下澄人の小説について飴屋法水が「一貫して震災のことを書いている」とどこかに書いていてまったくそんな風には思わなかったが山下澄人のトーンはいつも同じで年老いた男が惨めに死ぬ。そういえばいつも誰かが死ぬが若い人が死んだことはない気がする。芥川賞の「しんせかい」は若い人ばかりだったから誰も死ななかった。「水の音しかしない」はみんな津波に飲まれたがあれこそ震災の話である。
私はまた村上春樹のことを思い出し私は村上春樹の「国境の南太陽の西」「スプートニクの恋人」「ねじ巻き鳥クロニクル」の一連の作品の中で失われた恋人(だとか妻とか大事な人)が作品を追うごとに徐々に戻ってきていてしかし完全に元通りになることは決してなく若い私は歯がゆかったが村上本人は「デタッチメントからコミットメント」とか言っていて元通りになるというのはむしろ例外であり至難の業で決して努力云々でどうにかならないと一貫して言っている気がする。
私はテーマとか主題というのは意識するものでないと思っていて例えば私は私の記憶について書こうと思うのはスケールを小さくしてしまう行為だと思っている。思う程度のもの言葉で言い表せる程度のものは書きたくないと思っていてそれは自分自身の制御は結局自分ではできないという根本的な考えから発展したもので(あるいは逆で)である。主題とかテーマは自然と寄っていくものだと思っているがこれはどちらかと言えば願いに近く私は今後はテーマとか意識してもいいかもしれない。