意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

地続きの過去

昨日も過去についてぐだぐだと書いてしまったがまた少し前には大人とは何かについても書いたが大人とは何だろう。


別の観点で考えると私が大人になったのは15歳になる直前の中学3年のときだった。私は9月生まれなので直前とは夏休みでそのとき五木寛之の「生きるヒント」の文庫本を読んだ。「生きるヒント」は私の記憶が合ってるなら花金データランドの本の売上ランキングコーナーで紹介されていてそれを見て買おうと思った。読んだら面白かったが最後の「想う」の章で人生に希望がないと書いてあってショックを受けそのときから私は地続きなのである。地続きというのは逆に夏休み以前は地続きでなくそれ以前の思い出は別世界の出来事で他人事なのである。そこで過去が寸断されその区別が妥当かは今のところわからないがそれが子供から大人になった瞬間ではないかと思う。つまり私はその日から人生と希望について考え続けているのである。考えが継続する限り記憶は他人ごとにはならない。私は友達と飲んでいても恋人と性行為をしてもたぶん「これは希望と呼べるのか」と自問し仕事で取引先に毎日ねちねちイヤミを言われて半泣きで周りの人に仕事を紹介してくれないかと河原で電話をかけたりしながらも「これはアンチ希望なのか」と自問していたのである。


1ヶ月と少し前に叔母が亡くなりその通夜と葬式のときに祖母が骨折していたという話を母から聞いた。叔母とは正確には大叔母で祖母の妹である。叔母の死体が家に帰ってきたとき夏だったので腐敗を遅らせるために部屋に冷房を目一杯きかせたら祖母が冷えたので台所に移動しそこで居眠りをして椅子から転げ落ちたらしい。ろっ骨を骨折しろっ骨を骨折するとかならず
「ろっ骨ってじっとして治すしかないんだよね」
みたいなトークになる。