意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

こだわり

何日か前に読んだ記事でその人は小学低学年のころを思い出していて一辺1センチの正方形の対角線の長さを測ったら1.4センチだったが他の多数は1.5センチであったが教師は多数のほうを採用しその人は邪険にされた。こうしてかいつまんで書くと嘘っぽいがクラスの中の声の大きな人が「こうだ」というと主張すると全体がそれになびいてしまうことはよくあった。あっただろうか? 記事を書いた人はこうしたことは社会にでるとむしろ当然のことであり正しいが少数の人はその正しさを他の人に納得させられない限り後にその正しさが明るみに出てもむしろそのときに他を納得させられなかったから責めに帰されるという。私はなんだか話がつながらないし腑に落ちる内容ではなかったがいくら「責められて当然」という話の分かる風な顔をしていても内面ではだいぶこだわっている風がかんじてとれた。


私にも同じような経験がありこれは昔かいた小説にも書いたが中学のころ合唱祭の練習があってその前に門のところの掃除当番だったから掃除していたが私たちの働きは不十分で担当の教師はやり直しを命じた。やり直しをしていたら合唱祭の練習に遅れるから班の人は私に教師にやり直しを免除するよう訴えるよう頼んできた。何故なら私が班長だったからである。あるいは私がいくらか弁が立つと思ったのかもしれない。私はまったく気乗りがしなかったが気の強い女子が「大丈夫だから」と諭すから職員室に向かった。大丈夫の根拠は私の通った中学は合唱が盛んでコンクールが近づくと昼も夜も生徒は気が狂ったように昇降階段や廊下で歌いまくり教師も熱くなる。そんな中音楽室で練習できるのはせいぜい一度か二度でそんな貴重な練習を掃除のやり直しでふいにするなんていくら強面の体育教師でも不憫に思ってやり直しを免除してくれるだろうということだった。私は虫が良すぎやしませんか? と思ったが一応訴えてみると
「だから?」
と言われ掃除の免除を求めると
「そんなこと私には関係ない」
と突き放された。私はショックよりも安堵の気持ちになった。むしろ清々しかった。胸を張って訴えが退けられたことを伝えるとみんなは文句を言いながら再び箒を手にした。


私はこの出来事について少なくとも数年前までは特別視していたが今振り返るとどうってこともない。と書こうと思ったがこうして書いてみるとやはり引き込まれる何かがある。書いているこちらも清々しいのである。一方でこの教師の心境も危うかったのではないかと思った。人を「関係ない」と突き放すときむしろ突き放されているのは自分なのである。


清々しい記憶はもうひとつあるが後で書く。