高校のときの倫理の時間に内向型と外向型いうタイプ分けを習って実際に四角に囲まれた質問を矢印に従って答えていったら確か私は「内向感覚型」で特徴を見ると大いにしっくりくる内容だった。私は確かに自分以外の人間よりも自分に対する興味が強くてそれは自分の内面をさぐることで自分以外の人間を分析・定義するというある種の合理性から生まれた性向である。なぜ合理的なのかというと私は四六時中私だからである。しかし私は40歳間近になってもたまに自分が自分であることが奇妙にかんじることもあるから多くの人は自分と他人の境界は曖昧だというふうにとらえているのではないかと思う。境界をしっかり見つめると私というものがその境界からあふれたり逆に他人が入り込んでくることはない。もしかしたら多くの人はそんなことは当たり前というふうにとらえていて逆に私が私であることにここまでこだわるのは何かの拍子に私が私でなくなる可能性を捨て切れていないからかもしれない。
内向外向は興味の向きの話だからコミュニケーションの能力とか繊細さとは必ずしも連動しないはずだがセットで扱われたりすることが多く私もついさっきまで内向的だから人と接するのが苦手みたいにぼんやり思っていたが違った。私は他人に対する興味が薄いくまた自分としては人見知りをするし初対面の人と話すのが苦手だというのが長い間の自分に対する認識だったがそれについて他人に話す機会があったときに話すと
「それは冗談だろう」
とまったく信じてもらえず他人の評価をまとめると良い評価としては私は頭が良く悪い評価としては私は人の話を聞かない。というわけなので私は自分の自己評価はあまりあてにならないと判断し今でも例えば駅で駅員に電車の乗り方を訊ねたりするのが嫌で仕方ないときもあるがそれは勘違いだというふうにとらえることにした。
・私以外の人について
今まで何人か私の知り合いに著しく自己評価が低かったりネガティブな発言が多い人がいてそういう人は総じてコミュニケーション能力が低いとか行動力がないとかアピールするがそういうのを鵜呑みにするとあるとき趣味の同じ人と会話する場に出くわすとびっくりするくらい開けっぴろげに話をしていてその度に私は「だまされた」と思ってきた。彼らもまた自己評価が間違っていたのである。結局そこにあるのはホームかアウェイかの違いだけである。誰だって気心知れた人となら会話は弾むのである。
話をまとめると自己についての他人の評価を鵜呑みにするのは愚かだがそれでも自分による自己評価は願望などが邪魔をして信憑性にかけるので自分がどんな人間かについては他人の言うことのほうがまだあてにできる。それでもマシという程度であるが。