意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

昔見た映画

中学から高校にかけてよく映画を見たという事実が過去すぎてまったく実感がない 中学までは学生証を見せなくても良かったが高校になると持ってないと容赦なく大人料金を請求された それでも見た 当時(1990年代)の映画館は席の指定なんかなかったし一度入ったら出るのはいつでも良かった それはどういうことかと言うと映画が始まってから入場し次の回の途中まで見て帰るということができたということだ 一度だけそれをしたことがある 「がんばれルーキー」という映画で叔父と見た この叔父は母方の叔父でこの前亡くなったのは父方の叔父だった 私たちは時間に間に合わなかったので途中からエンディングまで見てもういい気がしたが叔父が「見よう」と言うからそのまま席に居座り続け次の回も頭から見出した そして本当に「ここから見たな」というところまでくると2人で頭を引っ込めて外に出た せっかく見だしたから最後まで見たい気もした 先に最後を見てから最初を見るというのはネタバレということにうるさい昨今では信じられない行為のような気がするがそういえば祖母も推理小説は犯人がわからないとイライラするから最後からよむなんて言っていてこれは母方の祖母で前述の叔父の母である 保坂和志が「ストーリーが小説を遅延させる」と言っているが確かに先が気になってしまうと文章をかなり大ざっぱに読んでしまう 昔の映画館で映画を見たときは「あそこってなんでああなんだろ」みたいなところを二回目で確認するということが気軽にできた 今は映画のお金も高いし一回きりだから真剣に見なければいけない だからなのか一回見ればじゅうぶんという風になった ひょっとしたら映画はどんどん易しくなっているのかもしれない