意味をあたえる

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教師の苦悩をおもう年になった

何を載せてもいいと言われたのに…不登校の妹が卒業文集に「学校に通えない理由」を書いたら先生に却下された話 - Togetter

かつては私も上記の記事のように教師は基本的にクソだと思っていたがむしろクソだと思うことが成長なんだと思うようになった 卒業文について「なんでもいいよ」と言った教師が浅はかなように書かれるが「素直にかんじたことを書いてほしい」という願いがそのときの感情だかキャラでそういう言い方に変化したというかその場では「なんでもいい」がしっくりきたのだろう 「なんでもいい」の中に例えば過度に暴力的だとか性的なのは入らないことは教師も生徒もお互いに了解しているから問題にならない 不特定多数との公的な契約なら例外事項は漏れなく確認せねばならないが漏れなくやるのは猥雑だから限定された場であれば省略というか暗黙の了解でやるのはベストではなくても仕方がないぶぶんがある だから「なんでもいい」と言った教師が悪いという非難は的を射ていない


教師が悪かったのは「なんでもいい」の認識について生徒との間に齟齬が生じさせてしまったことである しかし大人を長くやっているとAだと伝えたことが真逆のBとして相手は認識していたということが日常的によくあることがわかってくる これは私が未熟だから引き起こされるわけだが年を追うごとに未熟さは解消されたはずなのにこういったことがなくなる気配は全くない 上達するのは齟齬が出たときの対処というか諦めの境地みたいなのである この前会社の人に感心されたのだが私が指示したことをまったく守らずトンチンカンなことをしている人がいたときに私はそれを咎めることなくまるで初めての事例のように「ここは○○でやっちゃってもいいですよ」と伝えた 咎めても自分の非を容易に認める人ではなかったから頭から凹ますリスクとことの重大さを考慮しソフトな表現にしたのだ 当然「使えないヤツだ」と心の中で毒づいたがそれを表に出さなかったのが私の成長なのだろう


そんな風に書いたところで「なんでもいい」と言った教師の軽率さは何も変わらないがそれでも私は(少なくとも上記記事にかんしては)どうしても教師の肩を持ってしまう もちろん生徒の側は一生をかけてこの教師を恨む権利はある 私も私をだまし討ちにした教師のことを何度もブログに書いた