意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

最後は大抵つまらない

文章の話だが書いていてラストが数パターンしかないことを意識することがある あるいは新たな気づきを書いているようで最後の段になると前にも主張したこと自分がよく言っていることにおさまってしまうということがある どれもこれも「終わり」を意識するからである


会社でメールを書く機会が増え早い段階で「よろしくお願いします」を辞書登録した「よろ」で出る 繰り返す言葉なので登録するのは効率が見込めるが端的に考えてバカである どうしてこんなことをいちいち書かなければならないのか・挨拶みたいなものだという考えもあるがそう考えると仕事に挨拶もいらない気がしてくる 挨拶もしたくないくらい嫌いな人もいるから したい人だけすればいいのだ 少なくともメールはいらないことは確実に言える


いらない理由は決まりきっていてわざわざ読むまでもないことだがメールに限らず文章は流れを意識すると最後をきれいにしめるという意識が働いてワンパターンになる 「きれい」とは無難ということでありすなわち「つまらない」ということだ 私は以前「まとめられるブログはつまらない」と書いたことがあるがまとめられるのなら最初からそれだけでいいだろと思う 「要するに」とか「言いたいことは」というのは実は要されなかったぶぶんのほうが面白いのだがそれでも要するのはそうしないと書ききった気がせずおさまりが悪くなるからである 世の人が書く文章のほとんどは「おさまり」が良いので少なくとも最後まで読む必要はない 


私は無駄なことは書きたくないので読む必要のないことは書かないよう気をつけている だから自然とおさまりが悪くなるよう空に放り投げるように書いている タイトルから書くが書いているうちにそれは忘れ長くなると最初のほうに書いたことも忘れる 読み直せば誤字が減ったり主語述語のつじつまがもっと合うようになるのかもしれないが面白さが向上するとは思えない ここ数年は一筆書きみたいなスタンスです