意味をあたえる

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兎と亀(3)

兎と亀(1) - 意味をあたえる

兎と亀(2) - 意味をあたえる

亀は、自分は稲子の体が目当てではない、稲子の中身が欲しいんだと主張した。それは周りの者に、亀が稲子に本気で惚れているという印象を与え、一部の者は亀を応援するようになった。いや、一部というよりサークルのほとんどの者なのかもしれない。確かに、ここで稲子と寝てしまえば、稲子にとっての自分の存在はその他多数に埋没する。その理屈は兎にも理解ができた。だが、兎には亀のその行動が妙に芝居がかっているように思え、どうにも気に食わなかった。童貞なのは亀が不細工で女に見向きもされないからなのに、それをうまくごまかし、まるで聖人君子のように振舞う。そんな見え透いた演出に、稲子が騙されるとは思えない。
「部長さんにも話してみましたけど、おもしろそうだ、て言ってましたよ」
かさかさした口元を緩めながら亀が言った。テーブルの上には水のペットボトルが置かれ、中身が半分ほど減っている。不意に亀がそれを持ち上げ口へ持って行った。ペットボトルの表面が亀の手の中でへこみ、光の反射が歪になる。兎は曖昧に返事をした。まだ決闘を受けるとは言っていない。業を煮やした亀は周りから崩していくことにしたのだ。部長にまで知れたのなら、もはややらざるを得ない。この場ではっきりとやらないと宣言すれば、やめることも可能であったが、今更どうでもよくなっていた。どうせ結果は見えている。
「決闘と言っても勝ったら何があるんだよ」
椅子に座り直しながら、兎は聞いてみた。もちろん、勝った方が告白できるんですよ。亀は自分の手の爪を眺めながら当たり前のことのように言った。兎は間髪入れずに身を乗り出し、なんで俺が稲子に告白するんだよ?と問いただした。亀は自分が稲子に対する恋心を高らかに宣言しているが、兎はそうではない。それなのに、勝手に告白をお膳立てされても迷惑以外のなにものではない。一瞬、ぶっちぎりでゴールしてその場で愛を伝える自分の姿を兎は想像したが、それは最悪のシチュエーションだった。稲子の方だって迷惑である。亀は一瞬兎を見たがすぐに目を逸らし「あ、兎さんが勝った場合はちょっと違います」と言った。
「兎さんが勝った場合は、告白するのは稲子さんの方です。稲子さんは兎さんのことが好きですから」
亀は淀みなく言ったが、兎は言葉の意味を認識するのに、何秒かかかった。その間に亀は再びペットボトルを手に取り、キャップを開けて口に運んだ。ボトルは水平まで持ち上がり、亀のしわくちゃの喉仏が、ぴくりと動いた。全てが緩慢な動きだった。あるいはそう感じただけかもしれない。


その2日後に、兎は稲子と居酒屋で酒を飲んだ。学校帰り、電車の中で突然稲子が「シフト入ってないよね」と誘ってきたのである。2人で飲むのはこれで3回目だった。兎は反射的に駅前の2件の居酒屋を思い浮かべ、今日はどっちにするかと聞いた。聞いてからどうでもいい質問をしたと後悔した。稲子はえんじ色のワンピースを着ていた。足元には白い花柄とフリルが施され、ヒールのついたサンダルを履いていた。女だからスカートを履くのは珍しくなかったが、バイトの時のジーンズ姿に見慣れていたため、新鮮な感じがした。地元が同じなのだから、一緒に帰るのは一度や二度ではない。なのに、今まで稲子のスカート姿を見たことがあるか、兎には思い出せなかった。

駅に着き、飲む場所はフローズンのカクテルがあるからという理由で、歯医者の2階にある方の店に決めたが、開店の時間まではまだ間があった。とりあえず改札の目の前にある本屋へ行き、そこで立ち読みに飽きると、東口のすぐそばにある薬局へ行った。薬局はエアコンの効きが悪く、立っているだけで汗をかいた。稲子は化粧水を熱心に選んでいる。店の中から往来を眺めると、高校生が多く目についた。暑さのせいか、半袖のワイシャツをさらにまくりあげている女子もいた。どの子のスカートも短く、自然と足にばかり目が行った。太いのも細いのもあった。ふとレジに並ぶ稲子の後ろ姿に目をやったが、稲子のスカートはふくらはぎのところまであった。兎は稲子が高校時代どんなだったかを想像した。やはりそれほど目立たない生徒であったに違いない。短いスカートを履いて、友人と馬鹿騒ぎしていたのだろうか。その頃から、いろんな男と寝ていたのだろうか。

ようやく開店する時間となり、兎と稲子はまっすぐに店へ向かった。まだ開店準備も終わり切らない雰囲気の中、いちばん奥の席へ案内された。通路の途中で厨房の前を通ると、誰かを叱責する声が聞こえた。兎はなんとなく気後れしたが、先を歩く稲子は全く意に返さない様子だった。平日のせいか、兎たち以外には他に客もいない。

稲子から誘ってきたので、何か話があるのかと思ったが、ビールを何杯か飲み、他の客で席が埋まってきても、稲子はそんな素振りすら見せなかった。兎はひたすらビールを飲み、稲子はモスコミュールを飲んで、テーブルの上にライムの皮を並べた。兎は自分からはあまり話題を振らずに、稲子が喋りたいようにさせていたが、出てくるのはバイトの話と大学の話ばかりだった。少し前からコンビニのゴミ捨て場に廃棄となった弁当を狙って浮浪者がくるようになり、バイトの女の子が怖がっているという話だった。何度かオーナーが注意したが効果はなく、結局ゴミ捨て場の扉に鍵を取り付けることになった。兎も稲子も実際に遭遇はしなかったが、遭遇した高校生の女の子は、びっくりしましたー、と笑顔で語った。
「でもどうせ捨てちゃうお弁当なんだから、少しくらいあげたっていいと思うけどね」
注文したサラダを自分の皿に取り分けながら、稲子が言った。その際プチトマトがトングにぶつかって稲子の皿に転がっていった。稲子はそれを拾い上げると、何も言わずに兎の皿に放り込んだ。稲子はトマトが嫌いなのだ。
「それはダメだよ。お金払って買ってる人が納得しない」
兎が答えると、稲子は「それはそうだけどさー」と口をとがらせ、下を向いてライムの皮をいじくり出した。やがてそれを兎の皿に投げ込んだ。兎が悲鳴を上げると、稲子は大げさに笑った。
「そういえばね、亀君がうちの店でバイトしたいって言ってたよ」
笑いがおさまった頃、突然稲子が切り出した。兎は稲子の顔を直視しながら「なんで?」聞き返した。稲子は興奮を冷ますためなのか、飲み干したグラスの中の氷を何個か口に含み、冷たい、とはしゃいだ。兎の問いに答えようとしたが、きちんと発音できず、それがまたおかしいらしく、口を押さえて必死に笑いをこらえた。兎は辛抱強く待つことにした。待ちながら亀が住んでいる場所を思い出した。亀本人の話によれば、大学から都心寄りに住んでいて、稲子たちの住まいからは逆方向になる。電車で行こうとすれば1時間以上かかるし、そこからさらに距離もある。考えるまでもなく、稲子とバイトをするのは非現実的である。だが、亀のことだから、引っ越すと言い出しかねない。大体甲羅を背負っているのだから、どこでも生活しようと思えばできるのである。鈍臭いくせに、抜け目が無いのが亀なのである。甲羅の中には入ったことはないが、どうせジメジメして不快に決まっている。生まれ変わっても絶対に亀なんかにはなりたくはない。
ようやく口の中の氷が小さくなったのか、稲子が片言で話しだした。やはり兎が思った通り、稲子が距離的に難しい事を口にすると亀は引っ越すと言い出した。
「笑って言ってたけど、なんか変に乗っちゃうと本気でこっち来ちゃいそうな気がしてさ。だから言ったんだ。今はバイトはいっぱいだから、亀君が本気でバイトしたいなら、私辞めるから代わりに入りなよって」
軽く亀をあしらってしまう稲子が、兎は頼もしく感じた。やはり亀には稲子という女はもったいないと思った。そうなると、間違っても勝負に負けるわけにはいかない。

次第に稲子も兎も口数が少なくなった。稲子はうつろな目でメニューを眺めている。もう少ししたら、何かデザートを頼み、それを食べ終わったらお開きとなる。稲子は別にいい、と毎回断ろうとするが、兎は稲子を家まで送り届ける。

稲子が頼んだのはシンプルなバニラアイスだった。ドーム型のバニラをスプーンで少しずつ削りとり、口へと運んでいく。唇の間から出てきたスプーンは、当然のことながらバニラの痕跡がまるでなく、表面から鈍い光を放っていた。ここで何かそれらしい話を向ければ、稲子とセックスが出来る。橘に稲子がサセコだと聞いて以来、兎は稲子と寝ることばかり考えていた。初めて稲子に飲みに誘われた時は、すなわちホテルに誘われたのだと解釈し、コンドームを薬局まで買いに行った。何事も無く、ただ酔っ払って家路についた時は、がっかりすると同時に心のどこかで安堵していた。それは亀と同じように、その他大勢の一人になる不安からだったし、稲子の中でランク付けされてしまうんじゃないかという恐怖だった。

だが、一方で、数日前の亀の言葉があった。兎が勝負に勝った場合は、稲子が兎に告白する権利を獲る。それが本当なら、何もこんなところで悶々とする必要はない。今すぐ目の前の溶けかかったバニラを奪い、稲子を好きなようにしてしまいたい。それができないのは、やはり亀の言葉が完全に信用出来ないからであった。今日も終始稲子の態度を見ていたが、その気があるかどうかは全く判断ができなかった。稲子はただ、バニラを舐めることに集中しているだけだった。