意味をあたえる

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兎と亀(5)

夏休みに入ると、サークルで山中湖へキャンプへ行く事になった。休みの直前、前期の試験が大方片付いた頃に、稲子が誘ってきた。稲子の話を聞いて、兎はようやくこの集まりがただの酒飲み集団ではなく、旅行サークルである事を思い出した。メンバーの中には、旅行が好きで入ってきた者もいて、ほとんどの者が毎日、目的もなく馬鹿騒ぎしている裏で、旅行の計画を練っていたのだ。そして、稲子もその中のひとりだった。兎としては、気が進まなかったが、稲子に声をかけられると嫌とは言えなかった。簡単な行程を聞いて、次の日に旅行代金を支払った。稲子はそれを手持ちの封筒に入れ、表に兎の名前を書き込んだ。封筒にはすでに何人かの名前が書き込まれ、兎の名前は比較的下の方の位置だった。さり気なく縦に並んだ名前を見たが、そこに亀の名前はなかった。亀が参加するのか、聞いてみようかと思ったが、やめておいた。どうせ当日になればわかるのだ。

キャンプは8月の最初の週の3日間で、その週はバイトは1日しか入れなかった。大抵一緒に入っている稲子も同様だったため、その週のシフトは、夕方の時間に空欄が目立った。空欄がある場合は、他のアルバイトが早い者勝ちで名前を書きこんでいいことになっている。それでも埋まらなければオーナーが入れる者を探す。当然オーナーからしたら手間になるので、2人揃って休まれるのは迷惑なのである。旅行前の最後のバイトの日、兎はシフト表の前で腕組みをしていオーナーに、2人で旅行でも行くのかとからかわれた。兎は笑いながら否定したが、酒に酔ったオーナーはそれでもしつこく本当は付き合ってんじゃないの?と聞いてきた。兎は何か適当な仕事を見つけてその場を離れたかったが、ふとオーナーの言葉が2人の関係を客観的に語っているような気がして、もっと色々聞いてみたくなった。とうとう「他のバイトの子も2人は付き合ってると思ってんじゃないかなあ」という言葉まで引き出した兎は、満足してレジのところまで戻っていった。


旅行の当日は、近くに住んでいる者同士で車に乗り合って行くことになっていた。当然、同じ市内に住む兎と稲子は、同じ車で行くものと思っていたが、幹事である稲子は、人数合わせのために大学まで赴き、別の車に乗って行くことになった。兎は2つ先の駅で拾ってもらうことになった。急行電車も通過するような小さな駅 で、兎も降りるのは小学生以来だった。迎えの時間は8時で、近くまできたら、電話がくることになっている。指定されたマクドナルドの前まできて、ポケットから携帯電話を取り出すと10分前だった。兎はもう一本遅い電車でもよかったと後悔した。迎えにくるのは電話をすると言った、笹森以外は知らない。笹森は兎よりも一学年下だが、浪人しているために歳は同じだった。いつでもTシャツにハーフパンツといった洒落っ気のない格好で、真っ黒の直毛は針金のようだった。初対面から敬語は使わず、態度も馴れ馴れしかった。その事で兎は良い印象を持たなかったが、サークル内ではそのキャラが受け、上級生にもすぐ名前を覚えられた。笹森が自分の家の近所だとは知らなかったが、向こうはよく知っていて、隣町に住んでる事を教えられた。

日の光はまだ弱かったが、すでに蝉が鳴いており、その日も暑くなるのは明らかだった。特にすることもなく、ただつっ立っている兎の前を、様々な人が通り過ぎて行く。私服の者も、スーツも、制服姿の高校生もいた。いずれも脇目もふらずに駅の階段へ吸い込まれていく。汗にまみれ、口を開き喘いでいる中年サラリーマンもいた。誰も兎の存在には気付かない。立ち止まっているのは兎だけだった。ロータリーには、代わりばんこに車が止まり、そこから降りてきた人々が歩いてきた人々の流れに合流していった。大抵の人はさっきまで乗っていた車の方を見向きもしなかったが、たまにドアを閉める前に声をかける人がいた。いつまでも車の行方を見ているサラリーマンの目線の先には、後部窓から小さな手が出ていた。自動車が周回する中心部は縁石で一段高くなり、そこには木が植えられていた。3メートルはあるだろうかと思われる植木には、午前の光を反射した緑が生い茂り、どこか現実感がなかった。この時間に起きているのは、夏休みに入ってから初めてだった。夏休みでなくても、この時間に家を出るのは月に2,3回である。

その時左ポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴った。マナーモードにしていたため、太ももに振動が伝わってきたが、兎はしばらく事態が飲み込めなかった。ようやく電話だと気付いた兎が、取り出して画面を見ると、笹森の名前が表示されていた。同時に時間を確認すると、8時を10分ほど過ぎていた。電話の指示に従って歩いて行くと、紫色の軽自動車が止まっていた。兎が近づくと、笹森が後部座席から顔を出して合図をした。兎が荷物をどうしようかと考えていると、運転席から女が降りてきて、トランクを開けてくれた。茶髪でソバージュの見たことのない女だった。荷物を積み込むと、助手席に乗って、と指示をしてきた。車の中には笹森の横に、もう一人女がいたが、やはり初対面だった。

初対面の女は、いずれも4年生で、就職活動が忙しいためにサークルにも顔を出していないとのことだった。そう言われてみると、確かにいつもラウンジで見る面々よりは落ち着いて見える。「夏休み前にようやく内定出たの、気晴らしに染めちゃったんだよね」運転席の女はそう言った。名前は日野といった。日野は派手な髪と裏腹に目が小さく、全体的に素朴な印象だった。後部座席の笹森の隣は根田と言って、髪は黒いままで、顔は細長く、茄子を連想させた。日野はカーキ色のTシャツを着ていて、根田は白い半袖のブラウスを着ていた。

助手席に座らされた理由はすぐにわかった。シートの上には道路地図が置かれ、要するにそれで日野をナビゲートしなければならないということだった。日野は、ごめんね、道あんましわかんないんだよね、と言った。それは免許すら持っていない兎も同様で、さらに兎は乗り物酔いしやすい性質だった。分厚い地図の重量は手に余り、今現在の自分がいる場所のページを探すのにもずいぶん手間取った。兎は国道を指でなぞりながらようやく今いる駅を発見した。同じページには、いつも稲子とバイトをしているコンビニもあった。もし稲子がいれば、ナビの役を引き受けてくれるだろう。稲子は兎が車酔いする事を知っている。笑いながら兎を馬鹿にして、後ろの席へ追いやるはずだ。日野がサイドブレーキを下ろす音を聞きながら、兎は稲子の事を考えていた。

兎の任務は、車を中央道の八王子インターまで導くことだった。高速に乗ることさえできれば、最初のサービスエリアで、他のメンバーと落ち合うことになっている。兎は地図をなるべく立てて、下を見ないようにした。ページを行ったりきたりし、なんとかインターまでのルートを探した。国道を4回か5回程曲がれば、着くようである。しかし道がわかっていても、実際にその通りに走るのは難しかった。道がいつのまにか分岐して、知らないうちにルートから外れることもあれば、曲がろうとしていた交差点が立体交差で曲がれないこともあった。4人はその度に大騒ぎして、元の道に戻る方法を好き勝手に提案した。兎が、地図を目で追ってるうちに、車が住宅街の細い路地に入り込んでしまうこともあった。

幸い4人の地理感覚はほぼ一緒だったため、兎が一方的に責められることはなかった。笹森は兎同様に、免許を持ってなかったし、根田は方向音痴を自称していた。日野は自分の運転で遠出するのは初めてだと言い、たまに急ハンドルを切った。何度か道を間違っているうちに、笹森がじゃあそこを曲がってみようと思いつきの解決策を提案し、それに盲目的に従おうとする日野を、根田と兎で止めるというやり取りのパターンが出来上がった。道中は笹森が話の中心になることが多く、無遠慮に日野や根田に就職活動の苦労話を聞き出した。根田はお菓子を沢山持ってきていて、皆に飴やチョコレートを配った。日野が赤信号に気づかず、急ブレーキを踏んだ際に、衝撃で兎は持っていた地図のページを引きちぎってしまった。休憩に寄ったコンビニで、日野は肩が凝ったと言い出し、兎に肩を揉むように頼んだ。だが、兎の手つきがあまりにぎこちなかったため、日野は笑い出し、マッサージ師にはなれないね、と言われた。兎はずっと地図を見ていたが、車酔いすることはなかった。インターに乗る少し手前で根田の携帯電話が鳴り、待ち合わせ場所についていないのは、兎達だけだと教えられた。待ちくたびれてると聞いた日野は「じゃあ先に行ってもらって、私達だけでどっかで遊びに行っちゃおうか」と冗談を行った。他の3人がじゃあ富士山、ディズニーランド、と口々に好き勝手な事を言った。兎はこの旅行は自分が思ってたよりも楽しくなるような予感がした。
サービスエリアに着くと、すぐにアイスクリームを食べている集団を発見し、その中に稲子もいた。稲子は黒いTシャツにジーンズを履き、髪は後ろで束ねていた。兎達の姿を見つけると、すぐに日野にねぎらいの言葉をかけた。兎にも声をかけてきたので、助手席でずっと地図を見ていたことを、誇らしげに語った。稲子は大げさに驚き、ていうか早く免許取りなよ、と兎の肩を叩いた。次々と参加者が集まり、遅いと文句を言ったり、心配の声をかけたりしたりした。だが、その中に亀の姿はなかった。そばにいた一年生の女の子に聞いてみたが、用事があってこれないとのことだった。確かに亀がキャンプなんて冗談にも程があるような気がした。確かにあいつじゃ火を起こすのにも1日かかっちゃいそうだよね、とその女の子に言うと、くすくすと笑った。

稲子が日野に、交通費の事などを説明していると、見知らぬ男が近づいてきた。後で聞いたら、それはやはり就職活動中の4年生で、日野の彼氏だった。日野の彼氏は、もうここからはみんなで一緒に行くんだからと言って、日野の車は自分が運転すると言い出した。お陰で兎があぶれる形となり、そこからは3年の運転するバンに乗ることになった。助手席のナビ役から解放され、さらには軽自動車よりもはるかに快適な乗り心地だった。しかしあまり喋れる相手がおらず、兎は聞き役に徹しているふりをしながら、現地までは寝て過ごすことした。