意味をあたえる

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十字路(2)

しかし、小学校6年の二学期になると、状況が変わった。姉弟は、別の土地へ引っ越してしまった。初めは弟とガンダムのプラモデルで組み立てている時に、彼の口から聞かされた。春休みで、それが終わると、私は6年に、弟は3年に進級する季節だった。そのうち、俺んちなんか引っ越すみたい、と言い出した。その時私はガンダムの脛のパーツを接着剤でくっつけるのに細心の注意を払っていたので、その話に意識を向けることができなかった。せいぜい全体の1割くらいを向けるのが精一杯だった。彼はもしかしたら、接着剤を塗り終わった私が、一段落したと思って話を切り出したのかもしれない。が、私としては、この押さえる作業こそ、一番神経の使う箇所であった。私は意外と気が短く、接着剤が固まらないうちに、待ちきれずに次の行程に移り、全体を崩壊させてしまったり、または手についた接着剤を、ちゃんと拭き取らずにシールを触って駄目にしてしまうということが度々あった。そのため、接着剤に関しては神経質になり、固まるのを待つという行為は自分との戦いでもあった。
そんな時に話を始めるものだから、私の反応は、へえ、そうなんだ的な大変薄いものにならざるを得なかった。確かに驚きはした。だが、驚くという概念は私の中で秩序を保つ為にラッピングされ、極力刺激を抑えて頭の中を通過して行った。ちょうどミュートされたテレビのように。その後にいなくなるのは寂しいなどの二次的な感情が湧き出てきたが、同じ様に加工された情報だったので、それを正確に認識することが出来なかった。その後弟は「そしたら自分の部屋が持てるかもしれない」と声を弾ませた。その追加情報を受け、私の頭は”彼の一家はいずれ引っ越して私の前から姿を消すものの、それは直近に起こる事象ではない”と判断した。自分の中で完結してしまうと、あとは右の人差し指と親指の力の入れ具合に全勢力を注入すればいい。もちろん、彼はその後も話しかけてきたが、私の方はまるでてんで上の空で、適当に相槌を打っていた。珍しく接着剤が思う部分でちゃんと固まった後も、引越しについて改めて触れなかった。それについては、そのうちまた聞けばいい。
なんて思っていたら、半年もしないうちにあっさりと引っ越して行ってしまった。ある土曜日の朝、通学班の集合場所に親と共に現れ、鉛筆1ダースとノートをもらった。そして、今までありがとうと言われた。何がなんだかわからなかったが、そばには私の母親もいたので、それで私もその日が来たのだと悟った。親も知っているということは、私も引越しの事は聞かされていたのだろう。大体私は昔から大事なことを聞き落とす性格なのだ。結局それが最後の同じ通学班での登校となったわけだが、それで完全に離れ離れになったわけではなかった。実際一家は、国外とか県外に引っ越したわけでもなく、同じ市内の、しかも同じ学区内に新築の家を建て、そこに移ったに過ぎなかった。そもそも引越しの理由は、いずれくるn号線の拡張に彼らの住みかが引っかかっているためであった。だとしたらわざわざ知らない土地に移る理由はない。私の胸の中のぽっかりと空きかけた穴は、その情報により、幾らか規模を縮小した。
しかし、それから数日して、私はある変化に気付いた。それは、彼女と日直が同じになった時のことだった。新しい家の事を聞きながら、職員室へ日誌を届け、一日の仕事をやり終えた私たちは誰もいなくなった教室に戻り、帰り支度をした。彼女は相変わらず、青が色あせたような水色のワンピースを着て、その上に茶色のパーカーを羽織っていた。膝が露出していて、血色が悪そうだったが、寒そうな素振りはまるで見せなかった。日は既に傾いていて、教室の中は薄暗かった。それでも彼女はまだ話足りない様子で、新しい家の風呂について自慢してきたりた。今度の風呂は湯はりが自動でできるようになっていて、水を出しっぱなしにしてしまう心配がないらしい。おまけに脱衣場には鍵が付けられて、デリカシーのない父親の侵入を防ぐことができるらしい。そんな話帰り道ですればいいだろ、と思ったが、すでに彼女は引越しを済ませてしまっていて、帰り道も全くの逆方向になっていた。正直彼女とその弟が、遠く離れてしまったことにまだ実感がなかった。感覚のズレをどうにか頭で修正していると、あることが欠落していることに気付いた。それはかつて感じていた「結婚をしなくてはならない根拠のない義務感」であった。もはや彼女とは完全に他人となったのだ。私はこの突然の感情の欠落に戸惑いながらも、また、ある種の寂しさを感じながらも、それでも本音では喜んでいた。もうこれからは、こんな歯の出て洒落っ気もないような女をどうにかして好きになれないかと、頭をひねる必要はないのだ。校門で彼女と別れてから、息が切れるまで意味もなくダッシュをした。はあはあと息を切らせながらわざと声に出して笑ってみた。苦しいのに無理して笑った。秋の終わりの風がジャンバーに当たり、温まった体に心地よかった。
それでも警戒心の強い私は、再び望まない結婚への義務感が復活する事も考え、それを恐れた。家に帰った後で、今回の義務感消滅の原因を見極めようとした。そして、どうやら引越しが関係しているんだと気付いた。彼女との距離が離れたことによって、結婚する必要がなくなったのだ。おそらく今までは、深層心理だか脳の前頭前野が、一番身近な存在=結婚というパターン認識をしていたのだろう。その仮説が正しければ、彼女が再びこっちへ戻ってこない限り、結婚に頭を悩ます必要はない。私はとりあえずひと安心し、その後は本命の女の子との妄想に没頭していった。徐々に彼女の記憶は遠いものとなり、たまに以前住んでいた自動車整備工場の前を通り過ぎた時に思い出す程度になったが、何年化すると、n号線は片道2車線に拡張し、建物は跡形もなくなってしまった。
姉弟とは小学校を卒業してから、会うこともなくなった。