意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

新型コロナの情報を見なくなった

最近また感染者が増えているというが、以前ほど情報を目にしなくなった。危険度は何も変わってないが、やはりコレラのように原因がはっきりしない上に身の回りの人がばたばたと倒れていく、という状況でなければ日常に負けてしまうのだろう。私は少し前にコレラについての本を読んだので、その恐ろしさが少しはわかるようになっていた。コロナは原因が発生当初からわかっていたが、コレラはわからなかったので、場合によっては無闇に感染者を増やすような治療を行っていた。そんな中で暮らす人々は不安でたまらなかっただろうが、そうでもないのかもしれない。本を読むと当時の人も原因は突き止めていて、単にそれが間違っていたにすぎない。不安というのは現代に暮らす私の枠組みに当ているに過ぎない。乳幼児期死亡率とか平均寿命とか今とまったく違うのだから感じ方も違ってくるのだろう。


私たちの不安や喜びや達成感もコントロールされたものである。ウナギの稀少化に関係するニュースに無闇にウナギは食べるなというコメントがつくが、そこに稀少なのは何もウナギだけじゃないだろうという反論がついて、それは正論だと思った。しかし突き詰めれば何も食べないことが地球環境にとっていいことになり(それはそれで合っているが)みんな死んでしまうから生きなければいけない。もはや正しい正しくないで語ってはいけないのだ。ウナギだけ控えるのも希少種をきちんとデータを取って定義づけるのも野菜オンリーにするのも断食するのもすべて主観である。主観がないと全部どっちつかずになって、心を壊してしまう。全部が正しくなると、自分だけが間違っているとなってしまうのである。


前段を読み返すと私たちはコントロールされている、と書かれているから、主観を持たなければいけないというのもコントロールされた感情なのだろう。