意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

いつか走馬燈も自分で選べる時代に

何日か前の夢で見たのか突然妄想がわいたのか、そのうちに死ぬ前の走馬燈も自分の好みのセレクションにできるサービスが出てくるのではないかと考えた。それほど難しくないようにかんじたからやはり夢だったのか。例えば網膜の脇に小型のカメラを埋め込んでおいて自動車のカメラみたいに衝撃を受けたらサーバーにデータを飛ばして保存しておく、心拍が下がったら溜まっていた映像を流すみたいなことだったら案外早くできるのかもしれない。網膜にカメラというのが一番の障壁だが、実際ある富豪のカメラマンはシャッターチャンスを逃すのが惜しくてヘッドバンド型のカメラを頭に装着して日中見た映像をすべて記録し、あとからいい感じの風景を写真に残しているそうだ、というのは私の創作だ。


でもそれよりも私たちの記憶とはなんなのかが気になる。ニューロンです、というのが答えなのだろうが、私はニューロンが何なのかがわからない。記憶の情報は映像や音ではなく、記号なんだろうな、というのは何となく想像がつく。お母さんや親しい友人の顔を思い浮かべることができても、それを絵にはできないからだ。しかし写真を見ればその人だとわかるのはなんでだろう。私はそのことのほうがずっと不思議で不自然に思える。コンピューターのプログラムを書くとき、データベースにつなぐときは必ずその構文を書かなければいけないが、私たちの記憶のデータベースは常につなぎっぱなしでなんなら一方的にデータを出してくることも多い。つまり制御しているのは私たちの意志や意識じゃないということか。誰かその辺のことを面白く解説している本があったら教えてください。