意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

主語の難しさ

デートについて全ての男に伝えたいこと

奢り奢られのことが話題になっているが、私はあまり興味を抱かなかったが引用の記事はすっと読めて割と腑に落ちた。正しい支払い仕草を求めるのは不毛だが取引という視点で見たらいかがですか、と私は理解した。昔の村上龍のエッセイで「女性は食事をご馳走になるときは代わりに求められているのが何か考えた方がいい」みたいなことを書いていたのを思い出す。


しかしコメントを見ると「主語がおかしい」という指摘がいくつかあって窮屈なかんじがした。確かに「女性は」「男性は」と言ってしまうとそこに含まれない男女が必ずいて間違ったことになる。だのにどうしてこのような言い回しが存在するのか。時代ということだろうか。抽象的な話をしたくなるときは「大多数の」「一般的な」「私の知る限りの」という修飾は暗黙のうちに省略される。それが間違っていると感じればその人なりの「男性」「女性」をぶつけて話は進んだ。「n=1」というコメントも見るからそもそも暗黙なんかないのである。そういうのはインターネットの作法のひとつだろう。作法を知らない人、あるいはあえて知らない振りをする人が「炎上」するのだろう。日本語をアップデートする必要があるのかもな、と思ったがインターネットをある種の「地方」と考え方言みたいなものと解釈する。


私は友人のひとりのことを思い出していてその人は婚活を熱心にしていて女性とマッチングしたらいつも最初に池袋のモツ鍋屋に行くのが決まりだった。詳細は聞かなかったが奢っていたのだろう。一体いくら奢ったのかはわからないが、何人か目と結婚するに至った。結婚式に招待されたが式場に着いた私は住む世界が違うんだと悟った。招待されたものの共通の友人がいなかったため、生涯でベスト10に入るくらいの気まずさを味わった。