意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文字にまみれて

ブログを始めて、たくさんの文字を綴るようになったような気がするが、私はそれ以前にも書いていたから、この行為がとくにしんどいとか、逆にすごく楽しいとか、そういうのはない。しんどいときには無理して書かない方が良い、と今私が書いたなら、もう書いているけど、そうしたら割と多くの方が同意してくれるだろうが、私は最近では、楽しんで書く、というのにも懐疑的である。

それは山下清のことを知ってから思ったことで、私は山下清の文章、日記も大変素晴らしいと思っているし、あの文章を読むと語彙とかテクニックなんかどうでもいいんだ、と痛感させられる。そう言えば最近読んだブログで、クソみたいなブログベスト3というのがあって、これは本当にそういうタイトルだったが、例によって私は下調べもなく曖昧な記憶で書いているから、そういうダイレクトなタイトルではなかったが、そういう趣旨で、ところが、その中の1位のブログが、本を紹介するブログだったが、私はその紹介文が一目で気に入ってしまった。クソブログ1位に選んだ人も、「文章に「、」が多くて変、本当に人が書いているのか?」と評していて、私も全く同じことを思ったが、私はかなり前向きな感情を抱いた。

以前も書いたが、村上ポンタ秀一という日本のドラマーが、打ち込みとは知らずに聞いたドラムの録音を、「根性がある」と評したことがあり、この本のレビューサイトの人の文章も、感情があまりなくて、「根性がある」。根性というのは、「読み手を驚かせたい」「読んだ人を感動させたい」「文章うまいなって思われたい」という下心をこらえる根性のことである。そういうのがない文章がベストな文章もかどうかは、私には今のところ断言できないが、そういうのが過剰な文章は、読んでいて疲れる。

と、ここまで書いたところで筆が止まってしまった。ここから「文章の下心」に話題が行くはずなのだが、なんだか言葉が続かないのでここでやめる。私がこのブログで心がけていることは、考えずに書く、ということで、今のところこの書き方は正解だと思っている。それと、これもやっぱり下心をなるべく出さないためのテクニックだと思うのだが、最近はなるべく急いで書くようにしている。繰り返し書くうちに気づいたことだが、仕事の休憩中に書いていると、時間が来たら仕事をしなければならないから、書く調子が良くてもやめなければならないから、最後はものすごい勢いで書くときがある。それがなんだか気持ち良いし、満足度も高い。

話を山下清に戻すが、山下清は日記、というか旅先であった出来事などを学園に帰ってきてから書いたのだが、それは先生に「何時に原稿用紙なん枚書きなさい」と言われて書いたものだという。つまり、自発的に書いたものではなく、そのせいで書いた原稿は毎日ほとんど同じ文字数で終わっていたらしい。つまり半ば義務感で書いていたのではないか。そう思うと、楽しんで書く、というのも、どこまで書くという行為に相応しいのか、だいぶ怪しくなってくる。

ふと、私はまた小島信夫保坂和志の例のやりとりを思い出してしまう。適当に引用するが、
保坂「小島さんは小説に奉仕していると思う」
小島「そんなことを誰の前でも言ってはいけない。小説家は誰でも自分ひとりの力で書いていると思っているのだから」
というやつだ。

奉仕、という言葉が具体的に何を指すのか、私は相変わらず答えにはたどり着かないが、(着きたくないという思いもある)楽しんでしまったら、やはりそれは奉仕ではなくなってしまうのではないか、ひょっとしたら奉仕というのは罰という側面がなければ成り立たないのではないか、と思った。「奉仕」という言葉を単独で思い浮かべて、最初に思い出したのは高校のときの奉仕活動で、それは遅刻の多い人とか髪を染めてる人とか、そういうのがやるやつだから、私には縁がなかったのだが、おそらく学校の周囲のゴミ拾いとか、垣根の前を竹ぼうきで掃いたりとか、そういうことをやっていたのだろう。