意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

高級な文章

少し前からQuoraというサイトをよく閲覧している。そうするとある周期ごとに読みづらい文章にあたる。読みづらいを通り越して意味がちんぷんかんぷんなものもある。どうやら英語の記事を自動翻訳したものをそのまま載せているケースもあるようで著者の項を見ると英語っぽい名前なのでたぶんそうなのだ。そういうのは主語の配置が独特なので見当がつく。あと英語であれば気の効いた言い回しなのだろうなと思わせる何かの残骸のような文章も特徴的だ。以前三田誠広の小説講座の本を読んだときに「今の人は英語の授業で日本語訳をやりまくっているせいで自然と翻訳みたいな文章を書いてしまう」とあって例として「そのニュースが私を驚かせた」と出ていた。一見ありそうな文章だが日本語は人や物以外が主語になることはなく、かつ極力主語は省略するのである。だからこの場合の正しい日本語は「ニュースを見て驚いた」なのである。


言葉は生き物だからみたいな議論は置いておく。


しかし「ニュースを見て驚いた」なんて味気ないのでやはり装飾はほしくなる。ちなみに小説講座でも「ニュースを見て驚いた」は落第点みたいな評価がされていた。それを押さえた上で崩すなりアレンジするのが物書きの○○なのだろう(○○は楽しみとか腕の見せ所とか適当に入れてください)


私も実はこのブログの初期はかなり主語を意識していて、過剰に主語をつけて文章を不安定にしていた。わざと下手くそに書きたいという狙いもあった。それも(本来主語っていらないんだよねー)というベースの知識があるから成り立つことであった。


話は最初に戻るが翻訳でなくても大変に意味の通じない文章もあって私はさいきんは老眼も進んだから文章をひろう能力も落ちたのでは? と不安になった。一方少し前に個人が訳したジョージ・オーウェル1984を読む機会があってこちらは誤字脱字が多くて遭遇する度につんのめるようなかんじがしてこういうことは過去にあまりなく、あらためて校閲とか校正という仕事の存在意義について考えさせられた。子供の頃は本は買って読む物だったから意識しなかったが今は直接代金を払わなくてもそこら中に文章は転がっており、相対的に有料の文章の高級さが増した。