意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ラブマシーンは私の世代の歌

少し前に「モーニング娘loveマシーンはとても暗い歌だ」という書き込みを読んでその通りだと思った。その前後に私があるラーメン屋で味噌ラーメンをすすっていたときに店内BGMでかかっていたのがこの曲でそのときは知らない男の人がカバーをしているバージョンだった。麺をすすりながら私はその歌詞に耳をすませて当時の空気をよく現していると感心した。店の壁には水着を着た女の人がひざ頭に砂をまぶしてビールのジョッキを誇らしげに掲げているポスターが貼られていた。しかしそれは単なるイメージで壁には何もなかったかもしれない。


私はモーニング娘はデビューしたころから知っていて最初は泣かず飛ばずだったと記憶する。テレビ番組の企画と連動していたようだが私はよく知らない。しかしいつもオジャマンボウのCDランキングには入っていたから泣かず飛ばずは極端かもしれない。そんな些末なことはいいとしてそれがある時loveマシーンが出てから一変したのである。それまでは遠慮がちな、聞き手の顔色をうかがうようだった曲が突然自信満々になってしまったのである。まさしく一皮むけたような、目が覚めたような気がした。その曲を境にして今度は聞き手の方がモーニング娘の顔色をうかがって合わせていくようになった。


私は当時はモーニング娘にあまり興味ばかりなかったが友達に好きな人がいたしテレビでもじゃんじゃんかかっていたから何曲か知っている。子供が生まれてミニモニじゃんけんぴょんという薄っぺらな映画も見たことがある。loveマシーンが心に染みていい曲だなと思えたのは本当に最近のことである。当時はまったく感じなかったが注意深く聞くとやたらと未来という単語が出てきてとてもじゃないが今という瞬間には目が向けられないというメッセージが当時の暗い世相を表している。リアルタイムに生きていた私は自分が暗い時代に生きているとはまったく思わなかった。生きづらいということばもまだなかったような気がする。ダウンタウンナインティナインを見て笑っていればいいだけだった。私はだんだんそういうのから距離を取り出した。そう考えると私はすでに時代の真ん中にはいなかったのかもしれない。


そのあと就職氷河期で就職するのが大変だったが私は最初から就職する気がなかったが周りには「氷河期で決まらなくて」と言うとみんなが同情してくれるので楽だった。まだニートという言葉はなかった。

魂の午前3時

夏なので暑いので夜中に目を覚ますことが増えた。冷房をかけて寝ると寒くて起きるし消すと暑くて起きた。暑くて目が覚めて枕元のエアコンのスイッチを入れると冷たい空気がすわ~っと降りてきてこれは至福だった。しかし設定温度や風量を誤るとすぐに寒くなった。他人にそのことを話したら冷房を入れて毛布をかぶるのが良いとアドバイスされたが何故かそうする気が起きなかった。数年前まで寒いより暑い方がぜんぜん得意と思っていたが自信がなくなってきた。寒がりなのは変わらない。


夜中に目をさますと心が丸裸になったような感じがする。村上春樹の文章で魂の午前3時というのを読んだことがあってあらためて検索したら元はスコットフィッツジェラルドらしい。そこに書かれた通りで真夜中に目をさますと自分の人生が折り返しを過ぎたことを嫌でも実感する。果たしてこのままでいいのかとも思う。自分の人生がとても空虚なものにかんじる。


しかしそんなことを考えつつもすぐに眠りについて朝を迎えると何事もなかったかのように1日が始まるのである。もちろん夜中にかんじた人生の空しさはしっかり心に残っている。しかしながらそれらは1日のルーチンにまったく影響をあたえない。私は毎朝起きたい時間に起きられれば朝ご飯を食べて昼食の弁当を詰める。寝坊をすれば弁当がカップラーメンになり朝食が菓子パンになる。そんなとき立ち寄るファミリーマートには溌剌とした若い女性の店員がいて私は彼女に好意を寄せている。彼女は髪を後ろで一本に結んで溌剌なのでレジよりも発注を任されることが多く、今やレジで顔を合わすことは少なくなり代わりに彼女の舎弟のような目の細い男が私の相手をする。愛想はあまりないが私は舎弟のことも嫌いではない。(溌剌なのにレジをやらないのはおかしくないか? と思われるかもしれないが溌剌だから店長にも気に入られて色々業務を仕込まれているのではないかと推測する)

そういう朝のルーチンをこなしながら(昨夜は死にたくなったけど今日は今日でガンバロウ)と自分を奮い立たせることは一切ない。私はそのことがとても奇妙だと思う。夜中の心の丸裸は日中の私とは地続きでないのだ。あるい人生の大きな流れに完全に取り込まれてしまっているようで不気味だ。

ブランキージェットシティのライブを見た

一夜限りのプレミアムライブというのがYouTubeでやるというから見た。新しいのではなく20年以上の解散ライブの映像をフルハイビジョンにしただけだ。私も同じ映像をビデオで持っていた。だから新鮮味はなかったがわかっている物を見るのは気が楽だった。しかし忘れているぶぶんもあるからそういうところは新鮮だった。私はもう人生を折り返したのだからもう新しい物を見たりする必要はないのだ。一度見たものでも何かしら発見することはできるのだ。明らかに20年前に繰り返し見ていたときとは違うことを考えている。中村達也のドラムを叩くときの腕のしなやかさに見とれた。昔はもっと音の並びばかり見ていた。記憶通りのところが多かったが違うぶぶんもあった。例えばメンバーの表情とか、あと最後の曲が終わった後に観客の頭上をごろごろ転がっていた人が画面の隅でスタッフに引きずり下ろされるシーンが私と弟は気に入っていたが、記憶よりもずっと小さく映っていた。しかしそれは記憶違いではなく当時よりもずっと小さい画面で見ているだけの話かもしれない。


ところで私の上司の上司がブルーハーツが好きでクロマニヨンズが好きでしかしながら会社では規律とかそういうのが成果を生むというタイプなのでだいぶブルーハーツを冒涜しているよつな気がしていた。私はそんなに規律が好きならジャズでもオペラでもミセスグリーンアップルでも聞いていれば良いと思った。しかしこうして書きながら何を聞こうが同じ気がしてきた。クラシックが決して何か保守的なものを礼賛するものではなくその逆なのもあるだろう。ブルーハーツを聞いてきて名誉白人を唾棄しても、すでに名誉白人などいない。歴史に学ぼうとしてもただ遠ざかるだけなのである。


私が言わんとするのはつまり私がブランキージェットシティが好きですと言っても周りは私が上司の上司に対してその人がブルーハーツが好きですよと言ったときに私が感じるのと同じ感情を抱くのでは? というやるせなさだ。そうなると結局は好きな物は好きと言い続けるのが一番という陳腐な結論になってしまう。


また別のところで書くつもりだが私の子供が「大人は汚い」と言ったときに私が大人側の肩を持つことを懸命にこらえたとき、私は人生で一番か二番くらいに誇らしい気持ちになったし少年時代の私と交わした約束を守れたような気になった。

心のぜい肉

インスタグラムがはやりだした頃にある芸能人の投稿を目にし、それは男の芸能人だったが撮影された写真から自意識があふれ出ていて辟易した。同時にプロのカメラマンはすごいと思った。同じ芸能人の写真でもテレビや雑誌で紹介されるその人はまるで容姿について無頓着な風に写されている。どうして頓着しちゃいけないの? と聞かれると答えに窮するが前述の写真について私は見るに耐えない、と思った。


さっきインターネットの文章を読んでいたら書いているその人の容姿について「下の上」と表現していてその先を読むのが困難になった。つまり本人は「中と言うのははばかられるけど私より下の人は確かにいる」と言いたいのである。「中の下」と表現せず「下の上」と「上」で終わらせるあたりにプライドの高さをかんじる。つまり心のBMIは高めということである。実際読んでいる人はその人の容姿にはまるで興味はないので、結局は自分(自意識)との戦いなのである。プロのカメラマンの文章バージョンがいるなら容姿の特徴を淡々と書いて読んだ人が勝手に「中の下くらいかな」と思う風に落とし込んでくれるだろう。中の下にどんな需要があるかは知らないが。


私についても自意識には悩まされがちな部分はあったがそれでも容姿については落ち着いてきた。最近は鏡を見ても「老けたな」の思うくらいだ。自分を老けたと思うのも自意識だろうがもっと若い頃は「角度によってはイケメンだな」くらいは思っていた。

男女差

クジラは魚類か哺乳類かというテーマの本を読んで男女の役割も時代とかで変わるからあまり考えなくてもいい気がしてきた。

上記の本だとクジラは肺呼吸だから哺乳類と分類されているけど見た目で分類するというのが主流になれば魚類に分類されるだろうとのことだ。つまりこれは相対化というやつでクジラが魚類というのはかなり違和感があるがスイカは野菜か? というのに置き換えると私が子供のころにちょうど果物は木になる物を指すからスイカは野菜というのを聞いてそれはなるほどと思えた。今日ちょうど美容院に髪を切ってもらっているときに「やっぱ優秀な仕事をするのはどちらかと言えば男じゃないですか?」と言われ「どうだろうか」と思った。私は自分の職場に優秀な男をイメージできず、女の優秀はイメージできるが単に男女比の問題な気がする。私の職場は女の方が多いのである。その美容師の所感に肯定するのも否定するのも同じ気がするのである。ここのところは男女で差を付けるのはおかしいですよという主張が主流だが日常ではまだまだ「女ってめんどくさいよね」とか容姿の話をしたりする。決して日のあたる場所で行わないのがコツである。禁酒法時代にアルコールをちびちびやるのに似ている。内面は何を思うのも自由ですよというのも今の時代だから言えるのかもしれない。


あと血液型占いというのがあってそれも日常会話ではすることがたまにありそのたびに「あれって根拠ないですよね」と大真面目に言う人がいる。もしかしたら遠まわしにたしなめられているのかもしれない。私はそのたびに「血液で性格が変わるのはナンセンスだがこれだけ「○型は▲▲な人」て言われていれば引っ張られるのが人間じゃないですか?」と思ったりまた反論したりする。この理屈ならば例えば医者の手違いで違う血液型と思い込んでいたというパターンにも対応できるから便利である。

話をまとめる気はないが自分の主義主張ももっと謙虚に、またいい加減に持つのがいいと思う。「クジラは魚類」そういうののお守りになりそうだ。

そういえばお金がない

お金がない人はどういう趣味をもったらいいですかという質問を目にし自分にそういう発想がないことに気づいた。私はそもそも趣味がなないことが多いが、それはあまり人生で多くのお金を持ってこなかったからかもしれない。子供の頃は妹と弟がいてそれほど裕福ではなかったし大学を出てもしばらくは就職をしなかった。就職をしたら一時的に裕福になったがすぐに結婚して自由に使えるお金はアルバイトしている頃とあまり変わらなくなった。なのでやらなくても困らないことににお金をかけるチャンスはずっとなかったしそういうのが染み付いてケチになっている。暇をもてあましても積極的にお金を使おうとはならない。


相対的に文字は安くてまたいちいちどこかに出かけなくても済むので気楽である。漫画もいいがマンガの場合はもの早く読んでしまうので平気で1日10冊とか読んでしまうのでコスパが悪い。文字のみなら1日で1冊も読めないのが普通である。私はさらに1回読んだくらいでは理解できない本を選んでパフォーマンスを上昇させた、その中には2、3行でギブアップという具合のもあった。そうなると天井の染みを眺めてすごすのと大差なくなってしまう。少し前にあまり仕事に来ない人がいて話を聞いたら毎朝天井を眺めているうちに家を出る時間を過ぎてしまい遅刻するくらいなら休んじゃおというのを繰り返しているとのことだった。そういうのは学生のときに体験したことがある。学校にぎりぎり間に合うタイミングの間はじりじりど悩み、過ぎるとすっと心が軽くなるのである.そのあとに見るワイドショーの清々しさと言ったら!

哲学者(文学者)はみんなに嫌われる

本屋をぶらぶらしていたら高橋源一郎の「飛ぶ教室」というラジオ番組のコメントをまとめた本が売っていて立ち読みしたら楽しかった。楽しかったというか高橋源一郎を読んだときのほんわかしたかんじが懐かしかった。本は買わなかったが家に帰ってからラジオを聞いた。2/2放送回が2/9まで聞けるとあるのでそれを聞いた。スマホで聞いていたら途中でなぜか中断するので最初はその都度再生したがやがて聞くのをやめた。


高橋源一郎の話の中にドストエフスキーの「悪霊」のことが出てきた。そういえば私はドストエフスキーの「悪霊」のニコライ・スタブローキンが年端も行かない女をレイブしてしかも女が絶望して首をくくるところを隣の家から眺めていたというエピソードを読んで強烈に小説を書きたいと思ったことを思い出した。それは高校二年のときでそれから高校卒業まで私は小説を書き続けた。高校を卒業してからは漫画を書いた。実は私は「悪霊」そのものを読んだのではなく確か遠藤周作の本にそのエピソードが紹介されていて間接的に心を揺さぶられたのであった。それは振り返ってみれば幸運な出来事でありそれから10年以上経ってから「悪霊」を読んだが内容はほとんど理解できなかった。思い出せる登場人物はシャートフとワルワーラ夫人くらいである。


高橋源一郎のラジオの中でも「悪霊」のニコライ・スタブローキンの例の首をくくる少女のくだりを紹介していて、私は(みんなあそこが気に入るんだな)と感心した。しかし高橋源一郎のほうがプロなのでそれに続いて「哲学者や文学者は言葉には限界がある、言葉ですべてを言い表せないことを知っている」と述べた。スタブローキンの悪行について、スタブローキン自身は手紙の中で懺悔を行うがその悪行の悪が強すぎて言葉での懺悔は不可能なのである。しかし物語の中での行動が実は懺悔となる仕掛けになっていて、読者は結果的にスタブローキンの懺悔を聞いたのと同じになるとのことだった。


実は私は以前にもどこかで「言葉ではすべて言い表せないが、小説は「言い表せない」と言うことで言い表すことができる」というのを聞いたことがあって、なので前段の説明については「悪霊」そのものが理解できなかったのと同様理解できなさそうだったが、言わんとすることはわかったし、やはり懐かしい気持ちになった。どうして懐かしいのかと言うと長い間そういうのを忘れたふりをしていたからである。ラジオの中で高橋源一郎は「哲学者はすべてを疑う人だ」と話していて私もそういうのを心がけていたこともあった。しかしそのような態度は周囲を困惑させることが多い。