家では最近「菅野満子の手紙」を読んでいてでもそれは重いから持ち歩けない。家というのはアパートのことで私は単身赴任をしている。そこで多分正味15分くらい読書してから寝る。決して面白い話ではないが読み進めることに困難はない。この小説については改めて触れるが週末に家(実家)に帰ったので「菅野満子の手紙」は読めないので代わりに「残光」を読んだ。家の人が出かけていなかったので私は洗濯物を干したり畳んだりしながら読み進めた。天気が良いので毛布も洗った。本当は夏の間に洗えば良かったが夏は夏で忙しかった。残光も読んだがほとんどはYouTubeばかり見ていた。YouTubeも決して面白いとは思えないが見続けることができるので、そういう意味では小島信夫の小説と似ていた。あるいはYouTubeのアルゴリズムが面白くないものばかりを選んでくれるのだろう。
残光も菅野満子の手紙と同じかんじだがもっともしゃっとしていて形が曖昧だ。なにせ小島信夫の最後の長編小説でこれが発売されて少しして小島信夫は亡くなったしそれは90歳とかそういう年齢だったのだ。長男がアル中で死に妻が認知症になって老人ホームに入れられる。そこに悲壮感はなく、書きながら吉井和哉の「母いすゞ」みたいだなと思った。悲壮感がないのは本当の出来事だからかもしれない。保坂和志の対談に備えてとにかくトイレの心配をするところが心に迫るものがあった。私もそういう年なのである。
読んでいるときのかんじは菅野満子の手紙と同じだったが、不思議と読んでいるのに私が小説を書いているような気になった。私が小島信夫になったとか小島信夫が乗り移ったわけではなく、小島信夫の話を読みながら頭のどこかで私は私の話を書いているのである。私は昨日娘の学校の芝居を見た。娘は春から大学生で、そこの4年生の卒業制作だと言う。妻や娘は去年のほうが面白かったというが私はそれなりに楽しんだ。音楽も良かった。帰りに妻の機嫌が悪くなり、娘が私に謝るよう言うので謝った。謝っても意味がないと思ったが娘は
「パパがいなくなってからが違う」
と言うから謝ることにした。残光を読みながら今書いていることを書いていたかもしれないし、別のこと、昨日の芝居のことを書いたかもしれない。もしもかなうならその芝居は友人と見れたら良いのではとも思った。生きているとどうしてどんどん創作から遠ざかってしまうのか。