意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ブランキージェットシティのライブを見た

一夜限りのプレミアムライブというのがYouTubeでやるというから見た。新しいのではなく20年以上の解散ライブの映像をフルハイビジョンにしただけだ。私も同じ映像をビデオで持っていた。だから新鮮味はなかったがわかっている物を見るのは気が楽だった。しかし忘れているぶぶんもあるからそういうところは新鮮だった。私はもう人生を折り返したのだからもう新しい物を見たりする必要はないのだ。一度見たものでも何かしら発見することはできるのだ。明らかに20年前に繰り返し見ていたときとは違うことを考えている。中村達也のドラムを叩くときの腕のしなやかさに見とれた。昔はもっと音の並びばかり見ていた。記憶通りのところが多かったが違うぶぶんもあった。例えばメンバーの表情とか、あと最後の曲が終わった後に観客の頭上をごろごろ転がっていた人が画面の隅でスタッフに引きずり下ろされるシーンが私と弟は気に入っていたが、記憶よりもずっと小さく映っていた。しかしそれは記憶違いではなく当時よりもずっと小さい画面で見ているだけの話かもしれない。


ところで私の上司の上司がブルーハーツが好きでクロマニヨンズが好きでしかしながら会社では規律とかそういうのが成果を生むというタイプなのでだいぶブルーハーツを冒涜しているよつな気がしていた。私はそんなに規律が好きならジャズでもオペラでもミセスグリーンアップルでも聞いていれば良いと思った。しかしこうして書きながら何を聞こうが同じ気がしてきた。クラシックが決して何か保守的なものを礼賛するものではなくその逆なのもあるだろう。ブルーハーツを聞いてきて名誉白人を唾棄しても、すでに名誉白人などいない。歴史に学ぼうとしてもただ遠ざかるだけなのである。


私が言わんとするのはつまり私がブランキージェットシティが好きですと言っても周りは私が上司の上司に対してその人がブルーハーツが好きですよと言ったときに私が感じるのと同じ感情を抱くのでは? というやるせなさだ。そうなると結局は好きな物は好きと言い続けるのが一番という陳腐な結論になってしまう。


また別のところで書くつもりだが私の子供が「大人は汚い」と言ったときに私が大人側の肩を持つことを懸命にこらえたとき、私は人生で一番か二番くらいに誇らしい気持ちになったし少年時代の私と交わした約束を守れたような気になった。

心のぜい肉

インスタグラムがはやりだした頃にある芸能人の投稿を目にし、それは男の芸能人だったが撮影された写真から自意識があふれ出ていて辟易した。同時にプロのカメラマンはすごいと思った。同じ芸能人の写真でもテレビや雑誌で紹介されるその人はまるで容姿について無頓着な風に写されている。どうして頓着しちゃいけないの? と聞かれると答えに窮するが前述の写真について私は見るに耐えない、と思った。


さっきインターネットの文章を読んでいたら書いているその人の容姿について「下の上」と表現していてその先を読むのが困難になった。つまり本人は「中と言うのははばかられるけど私より下の人は確かにいる」と言いたいのである。「中の下」と表現せず「下の上」と「上」で終わらせるあたりにプライドの高さをかんじる。つまり心のBMIは高めということである。実際読んでいる人はその人の容姿にはまるで興味はないので、結局は自分(自意識)との戦いなのである。プロのカメラマンの文章バージョンがいるなら容姿の特徴を淡々と書いて読んだ人が勝手に「中の下くらいかな」と思う風に落とし込んでくれるだろう。中の下にどんな需要があるかは知らないが。


私についても自意識には悩まされがちな部分はあったがそれでも容姿については落ち着いてきた。最近は鏡を見ても「老けたな」の思うくらいだ。自分を老けたと思うのも自意識だろうがもっと若い頃は「角度によってはイケメンだな」くらいは思っていた。

男女差

クジラは魚類か哺乳類かというテーマの本を読んで男女の役割も時代とかで変わるからあまり考えなくてもいい気がしてきた。

上記の本だとクジラは肺呼吸だから哺乳類と分類されているけど見た目で分類するというのが主流になれば魚類に分類されるだろうとのことだ。つまりこれは相対化というやつでクジラが魚類というのはかなり違和感があるがスイカは野菜か? というのに置き換えると私が子供のころにちょうど果物は木になる物を指すからスイカは野菜というのを聞いてそれはなるほどと思えた。今日ちょうど美容院に髪を切ってもらっているときに「やっぱ優秀な仕事をするのはどちらかと言えば男じゃないですか?」と言われ「どうだろうか」と思った。私は自分の職場に優秀な男をイメージできず、女の優秀はイメージできるが単に男女比の問題な気がする。私の職場は女の方が多いのである。その美容師の所感に肯定するのも否定するのも同じ気がするのである。ここのところは男女で差を付けるのはおかしいですよという主張が主流だが日常ではまだまだ「女ってめんどくさいよね」とか容姿の話をしたりする。決して日のあたる場所で行わないのがコツである。禁酒法時代にアルコールをちびちびやるのに似ている。内面は何を思うのも自由ですよというのも今の時代だから言えるのかもしれない。


あと血液型占いというのがあってそれも日常会話ではすることがたまにありそのたびに「あれって根拠ないですよね」と大真面目に言う人がいる。もしかしたら遠まわしにたしなめられているのかもしれない。私はそのたびに「血液で性格が変わるのはナンセンスだがこれだけ「○型は▲▲な人」て言われていれば引っ張られるのが人間じゃないですか?」と思ったりまた反論したりする。この理屈ならば例えば医者の手違いで違う血液型と思い込んでいたというパターンにも対応できるから便利である。

話をまとめる気はないが自分の主義主張ももっと謙虚に、またいい加減に持つのがいいと思う。「クジラは魚類」そういうののお守りになりそうだ。

そういえばお金がない

お金がない人はどういう趣味をもったらいいですかという質問を目にし自分にそういう発想がないことに気づいた。私はそもそも趣味がなないことが多いが、それはあまり人生で多くのお金を持ってこなかったからかもしれない。子供の頃は妹と弟がいてそれほど裕福ではなかったし大学を出てもしばらくは就職をしなかった。就職をしたら一時的に裕福になったがすぐに結婚して自由に使えるお金はアルバイトしている頃とあまり変わらなくなった。なのでやらなくても困らないことににお金をかけるチャンスはずっとなかったしそういうのが染み付いてケチになっている。暇をもてあましても積極的にお金を使おうとはならない。


相対的に文字は安くてまたいちいちどこかに出かけなくても済むので気楽である。漫画もいいがマンガの場合はもの早く読んでしまうので平気で1日10冊とか読んでしまうのでコスパが悪い。文字のみなら1日で1冊も読めないのが普通である。私はさらに1回読んだくらいでは理解できない本を選んでパフォーマンスを上昇させた、その中には2、3行でギブアップという具合のもあった。そうなると天井の染みを眺めてすごすのと大差なくなってしまう。少し前にあまり仕事に来ない人がいて話を聞いたら毎朝天井を眺めているうちに家を出る時間を過ぎてしまい遅刻するくらいなら休んじゃおというのを繰り返しているとのことだった。そういうのは学生のときに体験したことがある。学校にぎりぎり間に合うタイミングの間はじりじりど悩み、過ぎるとすっと心が軽くなるのである.そのあとに見るワイドショーの清々しさと言ったら!

哲学者(文学者)はみんなに嫌われる

本屋をぶらぶらしていたら高橋源一郎の「飛ぶ教室」というラジオ番組のコメントをまとめた本が売っていて立ち読みしたら楽しかった。楽しかったというか高橋源一郎を読んだときのほんわかしたかんじが懐かしかった。本は買わなかったが家に帰ってからラジオを聞いた。2/2放送回が2/9まで聞けるとあるのでそれを聞いた。スマホで聞いていたら途中でなぜか中断するので最初はその都度再生したがやがて聞くのをやめた。


高橋源一郎の話の中にドストエフスキーの「悪霊」のことが出てきた。そういえば私はドストエフスキーの「悪霊」のニコライ・スタブローキンが年端も行かない女をレイブしてしかも女が絶望して首をくくるところを隣の家から眺めていたというエピソードを読んで強烈に小説を書きたいと思ったことを思い出した。それは高校二年のときでそれから高校卒業まで私は小説を書き続けた。高校を卒業してからは漫画を書いた。実は私は「悪霊」そのものを読んだのではなく確か遠藤周作の本にそのエピソードが紹介されていて間接的に心を揺さぶられたのであった。それは振り返ってみれば幸運な出来事でありそれから10年以上経ってから「悪霊」を読んだが内容はほとんど理解できなかった。思い出せる登場人物はシャートフとワルワーラ夫人くらいである。


高橋源一郎のラジオの中でも「悪霊」のニコライ・スタブローキンの例の首をくくる少女のくだりを紹介していて、私は(みんなあそこが気に入るんだな)と感心した。しかし高橋源一郎のほうがプロなのでそれに続いて「哲学者や文学者は言葉には限界がある、言葉ですべてを言い表せないことを知っている」と述べた。スタブローキンの悪行について、スタブローキン自身は手紙の中で懺悔を行うがその悪行の悪が強すぎて言葉での懺悔は不可能なのである。しかし物語の中での行動が実は懺悔となる仕掛けになっていて、読者は結果的にスタブローキンの懺悔を聞いたのと同じになるとのことだった。


実は私は以前にもどこかで「言葉ではすべて言い表せないが、小説は「言い表せない」と言うことで言い表すことができる」というのを聞いたことがあって、なので前段の説明については「悪霊」そのものが理解できなかったのと同様理解できなさそうだったが、言わんとすることはわかったし、やはり懐かしい気持ちになった。どうして懐かしいのかと言うと長い間そういうのを忘れたふりをしていたからである。ラジオの中で高橋源一郎は「哲学者はすべてを疑う人だ」と話していて私もそういうのを心がけていたこともあった。しかしそのような態度は周囲を困惑させることが多い。

芸能人が夢に出なくなった

ここのところどういうわけか古い記事にも星がつけられるようになってなんとなくそれを読んだ。当然私が書いているので楽しく読むことができた。8年とか前の文章である。その頃はもっと意欲的でひょうきんだったようにかんじた。当時は夢に高橋みなみが出てくることが何度かあったが今は高橋どころか芸能人をまったく見かけなくなった。夢そのものの頻度も減ったがやはりテレビを見なくなったことが影響していると分析した。昔から積極的にテレビを見なかったが、今は住んでいるところにテレビがないから物理的にテレビ不可なのである。そうするとテレビをじっくり見るのは実家とか健康診断の待っているときなどに限られ、あるとき朝の情報番組に出ているホンジャマカの恵がおじいさんみたいになっていて衝撃を受けた。私の中で恵と言えば着ぐるみを着ながら芸能人とエアホッケーを楽しむ人というイメージでそこにネチネチと嫌みったらしく笛を吹くのが関口宏なのである。そういえば関口宏のイメージはまったく変わらない。クイズ100人に聞きましたのころからおじいさんだった気がする。そういえば一年くらいまえにある鉄橋を下から見上げたら鉄骨の×印がクイズ100人に聞きましたのパネルに正解がなくて「ブブー」という効果音とともに画面に表示される×印とそっくりで感動した。あの×印は当時から古臭いと思っていた。


そういえば話は矛盾するが去年は大河ドラマのどうする家康を見た。どうして家にテレビがないのに見れたのかの説明は省略するが、私にとって大河ドラマを見たのは二つ目で一つ目は新選組!だった。新選組!の主人公は香取慎吾でどうする家康の主人公は松本潤で奇しくも2人ともジャニーズ事務所所属だった。ジャニーズ事務所といえば去年は色々隠されていたことが明るみに出た年で何かが明るみになる度に劇中の松本潤が老いていくのが興味深かった。

桑田佳祐の孤独の太陽

桑田佳祐孤独の太陽というアルバムがあって中学のときからしばしば聞く。もともと中学のときに友人にすすめられて買ったのだがその人はバスケ部で当時はスラムダンクがめちゃ流行っていたからバスケ部所属は花形だった。高校でもバスケを続けたが途中でやめてそれでも花形だった。しかし高校卒業後しばらく会わないで久しぶりに会ったらなよなよしていた。しばらくと言ってもせいぜい一年か二年でつまり私の若いときの話である。それが彼に会った最後だった。

それから私の音楽の趣味も変わったからしばらく聞かなかったがたまには聞いていたが先日久しぶり聞いたら後半の曲がいいなと思った。「真夜中のダンディー」以降である。そう言えば昔はそれよりも前の曲が好きで後ろの方はかったるかった。でもどっちにしてもこのアルバムを聞いているときは私の耳は若いのである。今でもロックはあるし皮肉めいた歌詞もあるだろうがそれが今年のミュージシャンの今年の曲なら私はうんざりして聞いてらんないだろう。


そういえば書きながら思いだしたが昔にドリームズカムトゥルーというグループがいてそれが売れた頃に父親が週刊誌に「ドリームズカムトゥルーの歌詞はおかしい」と書いてあったと言っていた。歌詞が変なところで区切られるのがおかしいらしい。しかしそれは流行についていけなくなった中年が溜飲を下げるために書かれた記事のように思える。