意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私の戦後教育

アマテラスの暗号という小説を読んでいたがどうにも登場人物がびっくりしてばかりなのでついていけなくなった。何に限らず「じつは日本人はすごい」みたいなのが苦手なのもある。日本人は実はユダヤ人? みたいな内容でそれを裏付ける証拠がでる度にみんなが驚愕してしまうのである。当然フィクションだから「そうかもしれないなー」と楽しめばいいが段々とどちらでも良くなってしまった。伊勢神宮六芒星ダビデの星だったとしても「へー、不思議だな」と思うくらいが多数ではないだろうか。主人公は自分の出自に関わるからむしろ陰謀論に寄せていっているのだろうが友人たちがそうなる理由がわからない。


話の中で日本の戦後教育が日本人から魂をうばってしまったという記述があってそうかもしれないと思った。私は日本人の誇りとかナショナリズムとか全然ぴんとこないからすっかり洗脳されてしまったクチかもしれない。小学校のときに音楽の教科書の最後のページの君が代に紙を貼り付けた記憶がある。しかしそれは後付けの記憶かもしれない。なぜなら授業で君が代の歌唱を練習した記憶もあるからである。私の父親は今で言う左寄りの人だったので日の丸とか国歌とかが嫌いだったので君が代も歌おうとしなかったが私に「歌うな」とは言わなかった。なので私は歌った。多分その頃の父がこの文章を見たら「嫌いというのは違う」と抗議するだろう。今はだいぶ小さくなってしまったからわからない。


私の地元は同和教育が熱心だった。大人になって職場の先輩にその話をしたらそういった教育を受けたことがなかったので私は大変にびっくりした。つまり熱心な地域はそばに被差別部落があったということであり、ずっと後になってとある苗字が被差別のマークであることを知った。しかし私は熱心な教育を受けたのでそういうのはナンセンスだし古い(教えてくれたのは義母だった)と思った。書きながら思い出したが私の妻の友人が当時付き合っていた男が被差別部落の出身でお婆さんの反対で別れさせられたということがあった。どんだけ時代錯誤だよと思ったが今はもうよくわからない。


同和教育とか差別というものも今はだいぶ相対化されてしまった。エマストーンがアジア人を差別するのは悲しい。しかし差別もビジネスですよとか聞くともう迂闊なことも言えなくなってしまう。ただ、「迂闊なことも言えない」という考えこそがインターネットの洗脳のような気もしてくる。垣根のない広い世界というのは錯覚でしかない。目の前の狭い限定的な世界はあまり変わっていない。