意味をあたえる

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コミュニケーションはもっといい加減に

わたしが30年間、コミュニケーションだと思ってたものが、インタビューだったらしい「そなた腰が低いがゆえに自己開示出来ない民と見た」 - Togetter [トゥギャッター]

読んでいてそう難しい話にしなさんなと思った。私はと言えば数年前まではいかに面白いことを述べて相手の注意を引くかということをモットーにしていたがここ数年は人の話を聞いてばかりだ。そういう仕事になったというのもあるし家族の主張もすごい。以前はそこに挑む気もあったがもうそうは思わない。そういえばずっと昔に議論で人を打ち負かすのは格好良くないと思ったことがある。論破とかいう言葉が生まれる前だから私には先見性があった。しかし論破が嫌いかというとそうでもない。徹底的にやってしまうときもある。それでもその場は物わかりのいい振りをして影でこき下ろすことの方が多い。陰口>論破である。


聞くことに馴れてくると沈黙にも馴れてくる。沈黙を恐れて半端な言葉を放り込むよりもぼんやりしている方がマシである。大概の人の話はつまらない。もっとダイジェストでお送りしてくれないかな、と思うことがほとんどである。登場人物の紹介から始まって順序良く喋る人がいる。私はふだん小説を読むから小説形式は退屈なのである。退屈だと思ってついぼんやりしていると相手の話を聞き逃してしまうことも多々ある。気まずくて黙っていると沈黙が生まれ、しかし終わってみると「なんだかすっきりしました」なんて相手は言う。私に気を遣っているのである。結果的に良い沈黙なのである。コミュニケーションはもっといい加減にやるべきなのだ。


聞くほうばかりに気を取られて話すのが下手になってしまったような不安にかられることがある。しかし私は山下清とか山下澄人の小説が好きだから語彙が少ないとか、たどたどしいほうが本当は格好良いんじゃないかと思っている。語彙とはコレクションだからつい見せびらかしてしまうものである。