意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

うまい文章

最近村上春樹がメールでの読者の質問に答えていく、というのが始まっていて、それは以前もあった。一番古いのは18年前とかではないだろうか。私は当時はパソコンを持っていなかったから、書籍にまとめられたものを読んだ。今回もそうしようと思う。

ところが、私は最近Twitterを始めて、それは生まれて初めて始めたというわけでもないので、手慣れた感じでタイムラインを更新するわけだが、すると、村上春樹の受け答えがリツイートされてくるので私は読んでしまう。「文章がうまくなるにはどうしたらいいですか?」という質問に対し「文章を書く力は持って生まれたものだ」と返事がされていて、こう、ぶっきらぼうに書かれたわけではなかったが、そういうところを私は「懐かしいな」と思った。しかし、他の質問の受け答えを読んでも、以前よりもぶっきらぼうに答えている感じがした。あるいはそれは「枯れた」という感じか。興味のある方は見てみてください。はてなブックマーク人気エントリー等に出ています。

それで、私はそんな風に前向きな印象を持ったが、その後もリツイートが繰り返され、そうしたらあるユーザーが「村上春樹見直した」と書いていて、それだけならなんとも思わないが、アイコンに見覚えがあり、たぶんその人は少し前の私の記事で、私を悪く言っていた人で、わざわざ確認はしないから全然別人かもしれないが、同じだとしたらいい気分じゃないので、私は違う考えを持ちたくなった。その人のことは、私はフォローはしていない。

そもそも質問者の「うまい文章」というのがナンセンスで、「うまい」という乱暴な言葉が、その人の求めようとしている表現の形から、遠ざけてしまっている。うまい・下手で言うなら、私は下手な文章のほうがずっと魅力的で、面白いと思う。理由は、文章は誰でも書けるから。誰でも書ける、というのは語弊があるかもしれないが、だから、私はこれからその語弊をひとつずつ潰していかなければならいが、ちょっと面倒なので、この先は読む人を限定したい。

私は「下手な文章」のほうが魅力的だ、と書いたが、魅力的だから当然そのような文章を目指して日々記事の更新に励む。毎日書いている。毎日書くメリットは、丁寧に手直しする間に翌日が来てしまうから、雑に書けるということだ。そういうことが「下手な文章」に貢献している。しかし、いくら私が「下手な文章」を目指したとしても、結局は「下手を装った文章」になってしまい、単に読みづらいだけの文章になってしまう。だから私はここにきてようやく、
「テクニックとは捨てるためにある」
という言葉の意味を知ることができた。これは一体誰の言葉だろう? 知ることができた、と軽はずみに言ってしまっていいのか? 本当は知らない。でも自分のものにできた。私たちは、そのもの自体を知らなくても、そのものの所有はできる。

ちょっと読み返してみたが、どうして「下手を装う文章」が「テクニックを捨てた文章」になるのかわからない。なにか思うところがあったのか? 私は今日のこの文章を一気に書いたわけではない。最初の方は美容院へ行く途中の電車で書いて、それからやがて美容院へついたが、風が強く、私はすこし早い時間だったからもう少し暖かければ遠回りしてゆっくり行くところだが、ビルを吹き抜ける風が私に殴りかかるような感じだったので速やかに目的地へ向かい、早めに着いたら美容師はぎょっとしていた。普段なら私は車でそこへ行って、大抵は遅刻するからだ。それから家に帰り、面倒だったが妻の車のタイヤをスタッドレスに履き替え、どうしてだか知らないが本当にあとボルト一本締めて終わりというところで妻は様子を見にきて
「空気圧とか平気かな?」
なんて行ってきて、空気圧くらい自分で行けよと思ったが、結局は私が空気を入れた。大変手が汚れた。

こんな風に私は唐突に今日一日の出来事を綴りはじめ、それは何故かというと、その前の段落の流れだと、「結局はシンプルが一番」という結論に至りそうで、そんなのなんにも面白くないから、今日の出来事とか書けば、どこかで何かがつながる気がしたが、つながらなかった。

話を最初に戻すが、村上春樹が「文章は持って生まれたものである」と言うのは決して言葉通りのものではなく、それは「あなたは文章というもののスタートラインに立つ覚悟はありますか?」という問いかけだったのではないか。


※お知らせ

こちらで小説を書いています。月から金曜日の午前八時に更新していましたが、朝のテレビ小説は土曜日も放送されているようなので、土曜日も更新しようと思います。良かったら読んでください。