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小島信夫「うるわしき日々」2

 このような状態にあって、老作家は先のことを思い煩わず、頬かぶりして、今日一日だけは歎かず悲しまず、そうして人を恨まず、心の平穏を保って生きることにしましょう、と自分にいいきかせるのである。 

 といっても、妻はそのような老作家の態度を無責任であるといい、一日延ばしをしていると、あとで必ず煮湯をのまされる眼にあう、という。それは長年の経験に照らしても分っていることだ、と眼をうつろにして呟く。

「それはどんな経験のことなの?」

 と、夫は最近、不思議な興味にかられて訊いたことがある。すると彼女は、我に返ったように眼を大きく見開いた。

 すぐに答えられないところを見ると、経験上、煮湯をのまされたのではなく、誰かのいったことを受け売りにしているのだ、と夫は考えた。

 母親に植えつけられたのであろうか。巡礼お鶴や人買いにさらわれて、サーカスに売り飛ばされる、と子供のときに信じ込まされた後遺症だろうか。返事が返ってこないところをみると、おそらくそうであろう。とすると、経験などといっても何も根拠がない。

 つまり彼女は一日延ばしにして煮湯をのまされたことは一度もない。あるとすれば、現在、夫が解決をのばしている息子の処置の問題でだけである。

 年をとると、階段を一歩一歩登るという行為は心臓や足にこたえる。しかし、そのプロセスのほかに、何も当てにはできない。それを急がされ、早く解決して安心したい、と願われても、それは無理というものである。小説を書くということも、それと似た行為だ。

 

(p147)

 

上記の引用箇所には、もちろん数日前に届いた付箋がはられている箇所だが、読んだのは届くよりも前で、そのときは注文は済んでいる状態だったから

「届いたらまずはここに貼ろう」

と思っていた。やがて届いて、その報せを受けたのは昼すぎだったが、台所に降りると義父がいて、

「なんかノブくん宛に届いてるで」

と教えてくれた。白い簡素な封筒だった。義父がなぜ私のことを「ノブくん」なんて呼ぶのかについては、機会があればまた書く。

 

だが、このタイムラグのせいで、引用箇所がどこだったかすっかり失念してしまい、ほとんど最初から読み直すはめになってしまった。その行為は、どことなく通学路の途中で落し物をして、学校へ引き返すというのに似ていた。私は勝手に前回引用した箇所よりも前だと思っていたので、そこから、前へ前へとページをめくるのだが、確かそのときはお酒も入っていたから見つからなかった。やがて流石にここよりも前ということは考えられない、という部分まできて、そこからまた後ろに向かって進んでいくのである。私は段々と、このまま見つからなければいいと、思い始めていた。そうすれば、上記の文章は自分の創作になって独占できるという欲が働いたからだ。また、その引用箇所については、私は、以前の私なら、例えば去年の私なら、引用しなかっただろう、と思っていた。おそらく、読んだ人は「なるほど」と感心してくれると思う。そういう読者サービス的な意識が働く箇所だった。しかし、そういう理由でもなかったような気がするが、忘れてしまった。

 

しかし、自分で文章を打ってみて、なるべく誤字はしたくないと思い、読み返すが、そうすると、ひょっとしたら、独身の方や結婚間もない方は、あまり楽しめる文章でもないような気がする。この小説を読みながら、私は自分よりも、自分と妻というのをいつのまにか重ねてしまっている。妻は小説を全く読まないが、この箇所をうまく伝えられれば、必ず

「この老作家は、あなたにそっくりだ」

と言うはずだ。私はこういう人間なのだ。私は昨日も正月ということで親兄弟で集まって昔話に花を咲かせていて、こういう面を出して周囲をだいぶ笑わせた。私は場を楽しくするために、あえて自分から道化を買って出たつもりだったが、ひょっとしたら道化は私以外の周り全員だったのかもしれない。そんなことを考えながら、酒を飲んだ。

 

母だけが黙っていた。

 

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