意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

音楽室(10)

職員室の前まで来て全員の足が止まる。ドアを開けるのには心の準備がいるし、誰が代表で話をするかも決めていなかった。前田くん1人に謝罪の言葉を述べさせるのは無茶な気がするし、30人余りで乗り込んでも、タヤマ先生の前に全員が並べるわけもない。誰かがそろそろ「で、どうする?」と言いそうになるタイミングで、芳賀くんが自分が呼んでくると言い出す。誰も異議は唱えない。芳賀くんの緊張した面持ちを見ると、なんだかみんなで戦地へ送り出すみたいだ。

「あ、呼んで来るだけならわたしが」

助け舟でも出してあげたつもりだったのだろうか。ほとんど意識もせずに言葉が出てきた。さり気なく言ったつもりだったのに、全員の視線が一斉に愛華に集まる。みるみる顔に血液が昇ってきて、下を向きたくなる。愛華にしてみれば単身職員室へ乗り込むよりも、今こうしてみんなの視線に耐える方が余程苦痛だ。

愛華から1番離れた位置から、芳賀くんが「なんで?」と聞いてくる。

「だってわたし音楽係だし」

それだけ言って説明責任を果たしたつもりだったが、周りは黙ったままで、まだ愛華が何かを話すと思っている。

「授業の前とかいつも喋ってるから。他の人より話ができると思う」

とあわてて継ぎ足した。

芳賀くんはああ、と曖昧な返事をして、それを合図に他の人たちも返事とため息の間のような声を漏らした。松永で大丈夫かよ、て感じなのだろう。だが、今井さんが「たしかに授業の前に先生のところへ行くのは係なんだし、松永さんが行くのが普通かもね」と言って、愛華の単独行動が一気に現実味を帯びる。伴奏者の発言も力を持っている。今井さんからしたら返り討ちにでも遭っちゃえばいいとか考えているかもしれないが、とにかく愛華が行くということで話はまとまった。

一歩踏み出すと、いつのまにか隣にいた佐藤さんが黙ってついてくる。佐藤さんも音楽係だから、一緒に行こうと言うのだ。友情パワーと責任感で勇気を振り絞ったのだろうか。だが、愛華としてはできれば1人で中へ入りたい。そうすれば先生にも「機嫌は直った?」とフランクに話しかけられて楽だ。乾いた唇を何度も口の中へ巻き込む佐藤さんの仕草が、正直鬱陶しい。

ガラガラの職員室の中で、先生は縮こまって何かに目を通していた。やはり職員室はあまり居心地が良くないのだろう。背中に声をかけ、いきなり頭を下げる。うまく置いてくることのできなかった隣の佐藤さんも、同じ動作をする。椅子に座ったまま半身こちらに向けた先生は一瞬動きが止まり、それから表情を引き締め「なんであなた達が謝るんです?」と聞いてくる。職員室内に響かないように、声は抑えられている

愛華は自分が謝るのは先生に不快な思いをさせてしまったためで、考えてみるとクラス全員が少したるんでいたような気がする。決して前田くん1人が悪いわけではない。先生はわたしたちに、そのことを気づかせてくれました。だからクラス全員で謝りにきたんです。今、みんな職員室の前で待っています、と淀むことなく一気に言い切った。我ながらよくこんなことが言えたもんだと思う。もちろん謝意なんてない。タヤマ先生だってそれはわかっている。もしここに佐藤さんがいなければ「よく言うよ」と頭を小突いてくるだろう。

このまま教師と生徒という演技を続けるなら、今度は先生の方が何か返さなければならない。どうしてわたしが教室を出て行ったのかわかってますか? なんて投げかけて、黙り込む生徒達に延々と説教を垂れなければならない。単に声が出てないとか態度の悪さを指摘するだけでなく、そこから日々の生活態度とか、2年生は中だるみしてるとかもっともらしく繋げる。わが校の伝統とか持ちだして、最後はクラスが団結する意義を唱え、めでたしめでたしとならなければならない。

が、先生が面倒くさがってそんなもの全部すっ飛ばしてしまいたいのはわかっている。だいたい気分で殴っただけで、今はもうどっちの手でやったのかだって忘れているはずだ。

タヤマ先生は机の上に残った右手で何かのプリントの端をいじくりながら、愛華と佐藤さんを交互に見た。

「わたしも少し大人気なかったような気がします。ごめんなさい。皆さんの気持ちはわかりました。すぐに授業は再開しますから、教室に戻って待っていてください」

吹き出しそうになるのをこらえながら、愛華は職員室を後にした。どうにか職員室前で生徒に取り囲まれるのを避けるために、必死で頭をひねったのだろう。先生にしたって、こんな煙草臭くて日当たりの悪い職員室にいるより、音楽室へ早く帰りたかったはずだ。感謝されたっていいくらいだ。愛華は胸を張って「もう怒ってないよ。大人げなかった、て謝ってた」とドアの前で報告した。みんなの口から安堵のため息が漏れ、帰り道では佐藤さんがはしゃぎ声で愛華の行動を称えた。「なんか愛華ちゃん堂々としてすごかった。いつもとぜんぜん違う感じ」それに周りの女子が少し反応した。その中に今井さんはいない。再び渡り廊下に来ると、芳賀くんが寄ってきて、お礼を言われた。「実は俺すげーびびってた」と笑う彼の横顔には窓からの日差しが全開であたり、どこかあどけなく見えた。



愛華のおかげで余計なお説教を喰らわずに済んだ、と、どれくらいのクラスメートが思っているかは知らないが、このアクシデントのお陰でクラスはまとまり、いい雰囲気になってきた。本番が近づくと、朝早くや放課後、昼休みまで練習をするようになった。

だが前田くんはあの事件以来、音楽の授業をサボるようになった。空白となった席は、欠席している生徒のものとは違って、どこか居心地悪そうに見える。その不自然さはタヤマ先生にもとっくに伝わって、誰かがいない理由を理不尽に追求されそうでヒヤヒヤする。だが先生は前田くんが何回か連続でサボってもそれに触れようとせず、久しぶりに顔を出した時も無茶な質問をぶつけたりもしなかった。朝や放課後は練習に参加している前田くんが、まさか病欠しているとは思っていないだろうが、タヤマ先生が腹の底でどう思っているかはわからない。直接聞こうにも、音楽室は合唱コンクールが終わるまで常にどこかのクラスに使用され、タヤマ先生とは会えないのだ。

ようやく合唱コンクールが終わり、久しぶりに第二音楽室へ土足で侵入すると、挨拶もそこそこ「ていうか前田のやつ」と先生が不満をぶちまけ始めた。だいたい思っていた通りだ

「もうあいつ留年だね。決定」

吐き捨てるように言って、チョコレートの袋を勢いよく開ける。景気の良い破裂音が室内に反響する。

「でも3回しかサボってないよ?」

「もう十分じゃん?わたしが成績で【1】つければ進級できないよ。ざまあみろ」

「だけどさ、いいのかな。暴力とか。親とか何か言ってこない?」

「言ってきたって別にいいよ。そしたらわたし仕事やめるもん」

やめる、と簡単に言ってしまう先生の態度に、何故か愛華は腹が立った。

「もしかしたら前田くんが授業出ないの、わたしのせいかも」

話の流れを変えるために、わざと深刻そうな顔をしてみる。タヤマ先生がチョコの包装を剥く手を止め、愛華の顔を覗きこんでくる。



愛華は空になった前田くんの席を初めて見た時から、自分のやり方がどこか間違っていたことに気づいた。職員室で話をまとめた後、タヤマ先生は程なく音楽室へ戻り、何事もなく授業は再開された。みんなはほっと胸を撫で下ろし、その後誰も前田くんのことを責めたりしなかった。というより、完全に忘れ去られてしまった。

前田くんにしてみれば、結局殴られた理由は明かされず、釈然としないものだけが残った。しかも先生の方から謝ったとのこと。じゃあそもそも自分は、何をしたわけでもないのに殴られたのだろうか?

あるいは前田くんはあの瞬間、ヒーローになっていたのかもしれない。みんなに取り囲まれ、女子に吊るし上げを食らいながらも、あの時のクラスの中心は、確かに前田くんだった。うまく流れを変えられれば、クラス全員でタヤマ先生の身勝手な振る舞いに、抗議することだってできたのだ。それが愛華の出現によって跡形もなく消え去ってしまった。

おそらく前田くんは、タヤマ先生にもう一度殴られたいと思っている。

理不尽な暴力にさらされることで、今度こそクラス全員を味方につけたい。授業をサボることでみんなの心を掴めるかは微妙だが、それが彼なりのやり方なのだ。

もし、先生がもっと感情的になって授業を放棄したり、延々と的外れな説教をしたら、前田くんの不平はみんなと共有することができ、前田くんのわだかまりは、早い段階で昇華できたはずだ。そんなことに露も気づかず、むしろ前田くんを助けたつもりになっている愛華は、とんだ偽善者だった。

でも先生だって悪い。

先生は大人なんだしお金をもらっているんだから、愛華があれこれ悩むより早く、行動を起こしてほしい。視聴覚室とかに呼び出して、話を聞いてあげるとかすればいいのだ。多分前田くんだって馬鹿だから、自分の言いたいことを聞いてもらえば、涙を流しながら「俺先生に見捨てられたのかと思って」と謝るはずだ。それなのに【1】をつけるとか仕事やめるとか、ちょっと身勝手すぎる。



半分は喋りながら思いついたことで、しかも気持ちが先走って、どこまで正確に伝わったかはわからない。言葉に力を込めると、涙が出そうになる。でも泣いたら本当にいやらしい女なので、なんとか堪える。先生がどんな感情で自分の主張を受け止めているのか見当もつかず、怖くて仕方ない。先日の職員室での謝罪とは対照的だ。

話が終わると音楽室の中はしんとして、やけに天井や壁が遠くに感じた。タヤマ先生は、愛華の髪を撫で「愛華ちゃんは何も悪くないよ」と神妙な面持ちで言った。喋るスピードは授業の時の半分くらいで、どこか粘つくような声だった。気に食わない。どちらかと言えば、今の話は先生を非難するのが主題だった。慰めてくるよりも、むしろ感情的になってほしい。【どちらかと言えば】なんて曖昧な気持ちで「わたしのせいかも」と言うから、伝わらなかったのかもしれない。

「そうじゃなくて」と愛華は身をよじって食い下がると、先生は不意に体を寄せてくる。左頬に手を添えたかと思うと、何の前触れもなくキスをしてきた。

何かを感じる前に唇は離れ、あっけに取られているとまたくっつけてくる。今度は長い。自分のとは違う洗髪料の匂いがして、目の前には細い髪とこめかみと耳が見える。その向こうにはピアノがあって、タヤマ先生の後ろ姿が歪んで映っている。

全身を硬直させたまま数秒が過ぎ、ようやく先生が離れると、お互いの唇から1本の糸が引いた。恥ずかしさで死にそうになる愛華とは裏腹に、タヤマ先生は右手で優雅にそれを掴み、ハンカチで拭った。

ずるい。

と思いながらもどう反論していいのかわからず黙っていると、先生は「なんとなく」とつぶやいた。なんの文脈もつながりもない、ただ空白を埋めるためだけの「なんとなく」だった。でも愛華は妙に腑に落ちてしまった。タヤマ先生はそういう人なのだ。

先生は席を立つと、紅茶を淹れるためにケトルのコードをほどき始めた。先生が絡まったコードにイラついている隙に、愛華は自分の唇に触れてみる。もう後からこの話をすることはないのだろう。



熱い紅茶を飲んだからと言って、昂ぶった気持ちがすぐにおさまるはずもない。愛華は先生に報告しようと思っていたもうひとつのニュースのことを、完全に忘れてしまっていた。

音楽室(9)

体育祭が終わるとすぐに、合唱コンクールの練習が始まる。全学年のクラスがそれぞれ課題曲を選び、近くの市民文化ホールを借り切って歌って順位をつけて思い出の1ページとなる。ここまでする学校は、他にはないらしい。うんざりした顔でタヤマ先生が教えてくれた。

1年の時は、数曲の候補の中から課題曲を選んだが、タヤマ先生の場合は、有無を言わさず曲は決められている。

「あなた達のクラスのカラーだとこの曲が......」

なんてそれっぽいことを言うが、そんなのはでたらめだ。本当は事前に愛華のアルトパートが比較的簡単なものを、放課後に2人で選んだのだ。十数年前のヒット曲。先生もよく知っている歌だった。

体育祭の時のように、隙を見つけてサボるわけにはいかないタヤマ先生は、クラスそれぞれの曲を頭に入れ、尚且それを生徒にも覚えさせなければならない。ほとんどは毎年同じ歌だが、放課後はずっとピアノの前に座りっ放しだった。愛華も楽譜をめくったりと手伝うこともあったが、そんなに頻繁にめくるような壮大な曲があるわけでなく、だいたいは教壇に腰掛けて漫画を読んで過ごした。先生から借りたもので、最近ではお互いの本を貸し合ったりしている。

ページをめくるすぐ横で、メロディが反復され、同じところで和音がぐしゃっとなって、舌打ちが聞こえる。「くそったれ」と汚い言葉を吐くこともある。自分で勝手に曲を割り振ったくせに、と愛華は思うが聞こえないふりをしてやり過ごす。

「どうしてあの馬鹿は1人で音外してんのにきづかないんかなー」

最後は猛スピードで弾きまくり、めちゃくちゃになって練習終わり! となるのがタヤマ先生のパターンだ。そうすると今度は延々と愚痴やぼやきが始まる。愛華が淹れた紅茶をすすり、スナック菓子を口に放り込みながら、喋りまくる。本番が近づくに連れ、ピアノの時間が減るのに対し、文句の時間は逆に増えていった。

「ていうかさ、いくら言ってもまともに声すら出さないやつがいるんだよね。そういうのが1番むかつく」

体育祭の時は全くやる気を見せなかったのによく言うよ、と愛華は思う。しかし自分もそのむかつく対象なのでは? とふと思ってしまう。もちろん自分なりに目一杯声を張っているつもりだが、先生にどう思われているかはわからない。被害妄想だということはわかっているが、ついつい「わたしは?」と聞いてしまう。先生は「愛華ちゃんはいいんだよ」と語尾を上げて答えるが、気持ちはちっとも晴れ晴れとしない。

合唱は男子のパートと、女子はソプラノとアルトに分かれる。それと指揮者と伴奏者。ほとんど自動的に指揮は芳賀くん、伴奏は今井さんに決まった。やはりやるのはリーダー格の人だ。今井さんは1学期にタヤマ先生によって失脚させられたが、それでもクラスでピアノが1番上手だという事実は変わらない。特にアピールをしなくても、結局はおさまるところにおさまった。

またあの生意気なのがしゃしゃり出てきた。

と、タヤマ先生が文句を言うかと思ったが、全く気にせず「もっと左手の小指まで意識して」なんて指導している。案外調子がいい。もしかしたら、かつてピアノから引きずり下ろしたことなんて、とっくに忘れているのかもしれない。

今井さんは陸上部所属で、髪が他の人よりも茶色くて目立つ。よくよく考えるとそのせいで生意気に見えるだけなのかもしれない。たまに「それは染めてるの?」と尋ねる教師がいたが「生まれつきなんです」とわずかに口元に笑みを浮かべながら、穏やかに答えていた。口の周りの筋肉が完全にオートメーション化されたような、余計なエネルギーのかからない笑みだった。きっと何度も同じことを聞かれているんだろう。

曲を始める合図を出すために右手を上げながら、芳賀くんは今井さんの方を見る。すでにスタートの鍵盤に指を置いている今井さんは、軽く頷いて準備OKの意思を示す。今井さんはタヤマ先生よりも細くて小さいから、ピアノが大きく見える。そんな風に見とれていると、歌い出しからつっかえる羽目になる。



事件が起きたのはようやく歌詞を覚え、パートごとのメロディも把握し、ぎこちなくもクラス全員で歌えるようになった頃だった。壁際に本番と同じ順番で並び、とにかく声だけは出す。愛華はひとかたまりになった声の中から、念仏のような自分の低音を見つけ、それを必死にキープする。何回か通すとうまく歌えない箇所がわかり、一度パートに分かれて音を確認する。その後また全員で歌う。特に問題なく最後まで通せるようになると、音のバランスや強弱、歌詞の意味などより細かい指導に移る。だがここまでくるとひと山越えたようで、先生は歌を聞きながら腕を組み、目をつぶっている。愛華の貸した少女漫画のことを考えているのかもしれない。

「まったく眠たい恋愛しやがって」

と文句を言うくせに続きが気になって仕方がないようで、昨日家に忘れてきたら、家に取りに来るとまで言い出した。

なんて思っていたら不意に目を開き、すたすたと迷いのない足取りで列の方へ近づいてくる。絨毯の上をストッキングで歩くのだから、音なんかほとんど出ないはずなのに、足音がはっきりと聞こえる気がする。周りの空気が一気に張りつめる。

先生は芳賀くんの脇を抜けると、後列の歌声を一人一人チェックし始めた。合唱の隊形は右からソプラノ、アルト、男声と各二列で並び、前後は声の大きさで決まる。後列は相対的に歌の下手なグループだ。そこに何か引っかかるものがあるらしい。愛華も後列だから、反射的に手のひらに汗をかいてしまう。もちろん前と同じパターンだから、自分が緊張する必要はないのはわかっている。それでも身構えてしまうのは、小動物的な防衛本能なのだろうか。ちょっと情けない。

ソプラノ、アルトとほとんど速度を弛めずに通過する。てっきりまた手でもぶつけてくるかと思ったが、横顔が一瞬視界を塞いだだけだった。不自然にならない程度にゆっくりと顔の角度を変え、先生の背中を捉えておく。指揮者から目を離すな、とよく先生は注意をするが、今は当人の死角にいるから問題ない。芳賀くんだって、ちらりとタヤマ先生の様子を見ている。

もしかしたら演奏にストップをかけるのかもしれないが、そうでない限りは最後まで歌い続けなければならない。今は半分も歌い終わっていない。

男子の2列目の、ちょうど真ん中あたりで先生は歩みを止めた。視界のぎりぎりで、前髪がかかって見えづらいが、いつもの調子でちゃんと声が出ているかチェックしているように見える。男子の中には、子どもじみた連中もいるので、この際前に引きずり出して、お灸でも据えてやればいいんだと、愛華は思う。

案の定前列の1人が横にどかされ、その隙間から男子生徒が1人手を引っ張られて出てくる。引っ張られた右手と、バランスを取るように後ろへ傾く頭には、頂点の部分に寝癖が立っている。前田くんだ。

ああ、やっぱりね。と視線を前に戻そうとした瞬間、何かが破裂するような音が室内に響いた。愛華の位置からは詳細がわからない。反射的に芳賀くんを見ると、大きく目を見開いている。それでも両手の4拍子は変わらず、全員がタヤマ先生と前田くんに意識を向けているのに、歌は続いている。自分たちの歌声が、BGMに聞こえる。

タヤマ先生は回れ右をすると、何も言わず教室を出て行った。残された前田くんは、左の頬を押さえている。口が半開きになり、伏せた目が微かにうるんでいる。

殴られる程、何をしたのだろう。考えるうちに、男子の声がフェイドアウトし、それにつられてピアノの音が乱れ、やがて全体の演奏が止まった。すでに前田くんは数人の男子に取り囲まれ「何やってんだよ」「大丈夫かよ」と口々に声をかけられている。前田くんは呆然としてほとんど答えられない。ひょろりと痩せた体型で立ち尽くしていると、葉を落としきった枯れ木みたいに見える。

前田くんを囲む輪に女子が加わり始めると、徐々にこれはまずい状況なんじゃないかという空気になってきた。タヤマ先生は授業を放棄して、出ていってしまった。声を荒げたりはしなかったが、怒っているに違いない。幾分落ち着きを取り戻した前田くんが「てゆーか俺何もしてねーし!」と抗議したが、女子たちは「何もしてないのに殴られるわけないでしょ!」とまともに取り合わず、ちょっとした言い争いが始まった。愛華は輪の1番外で、もしかしたら前田くんは悪くないのかもしれないと冷静に考えた。タヤマ先生なら、顔つきが気に入らないとかいう理由で殴ってしまうことだって、十分ある。前田くんの顔は一重まぶたが腫れぼったくて、目つきが悪い。おまけに短い髪をワックスで逆立てて寝癖をごまかしているもんだから、先生の目には挑発的に映ったのかもしれない。

やがて前田くんの声にも力がなくなってくると、クラス全員で謝りにいこうという話になった。提案したのは芳賀くんだ。指揮者の人から言われると、もうそれに従うしかないという感じがする。

ちょうど5時間目の半分が過ぎたところで、階段や廊下には誰の姿もなかった。クラス全員の足音が、気だるい空気を震わせている。誰か他の教師にでも遭遇したら厄介なので、みんなほっとしているはずだ。渡り廊下を通る時に窓から日が差し込んでいて、床に写った影とのコントラストが不自然なほど際立っていた。午前中は曇っていたのに、と愛華は隣を歩く佐藤さんに声をかけようとするが、佐藤さんはまっすぐ歩を進めることに全神経を集中し、愛華の話なんて軽く蹴散らされそうだった。平行四辺形の陽だまりはみんなに踏まれ、ぐちゃぐちゃになっていた。

音楽室(8)

予行練習の時にも姿を見せなかったタヤマ先生だったが、体育祭当日になると、観念したように本部テント脇に他の教師と並んだ。

愛華は、当日タヤマ先生がどんな格好をしてくるのか楽しみだった。なんせ普段は黒か紺のスカートに白やグレーのブラウスしか着ない。今くらいの時期になると、その上にカーディガンを羽織る。

校長の退屈な話をBGMに、先生の姿を探す。右側の端から3番目に立っていた。ピンク色のジャージは太もものところがぴっちりとしていて、生地は薄そうだ。上は白いTシャツを着ていて、何やら英字が大きくプリントされている。意味はわからないが、スポーツ用品店に売ってる類とは明らかに違う。日焼け防止に黒い腕サックをはめ、つばの広い帽子をかぶって表情が見えない。運動というより草刈りでもやりそうな格好だ。これは流石に教頭に怒られるんじゃないかと思ったが、何食わぬ顔で突っ立っている。左足に全体重をかけている姿は、なんだかふてぶてしい。ラジオ体操が始まっても、のっそりとした動作で明らかにリズムより遅れている。本当に音楽教師だろうか。帽子が落ちるのを気にしているのか、前屈はほとんど曲げない。あるいは元から体が硬いだけかもしれないが。

それでもやはり仕事なのだから、用具の出し入れなど、タヤマ先生の出番だってある。クラスの応援そっちのけで先生を目で追っていると、息を喘がせながらコロコロと動き回る姿が楽しめた。他の教師に話しかけられて愛想笑いも浮かべてる。体育祭なんて、愛華にとってはなんの面白みもない行事だったが、今年はいくらか違っていた。芳賀くんのピラミッドもきれいにぺっちゃんこになり、真剣な表情が秋の陽気に映えていた。



「松永さん、絆創膏持ってない?」

そう話しかけられたのは、組体操が終わって次のムカデ競争が始まった時だった。振り返ると芳賀くんが愛華の後ろに立っている。どうかしたのかと聞く前に、膝が真っ赤になっているのに気づいた。ピラミッドの際に擦りむいたのだろうか。山でも噴火したみたいに、血がふた方向に分かれて流れている。痛そう、と思うより前に、なぜわたしに話しかけたんだ? と考えてしまった。周りにも沢山人がいるのに。位置が良かったとか、確立的にはありえないこともないとか考えて、浮かれようとする気持ちに重石を置く。

「大したことはないんだけど、血が止まらなくて」

垂れた血が脛の方までいくのを、手で押さえながら芳賀くんは言う。前かがみになって、おでこに皺を寄せながら愛華を見上げている。体育着はお腹を中心に泥がついている。

「ごめん、持ってない。探してくる」

返事も待たずに走り出したのは、かけるべき言葉が見つからず気まずくなるのを避けたかったからだ。動揺して変なやつと思われるより、一刻も早くこの場から離れたい。それにテキパキと行動すれば、芳賀くんの印象だっていいはずだ。

とは言ってもどこへ向かえばいいのだろうか。とりあえず走ってはいるが目的地も定まらず、地面を蹴る両足の動きもどこかちぐはぐしている。一度止まった方がいいかと思うが、それはできない。もしかしたら芳賀くんがこっちを見ている可能性があるからだ。とにかく嘘でも芳賀くんのために一生懸命動けば、そこからステップアップできる気がする。一体何のアピールなのかよくわからないが。

ある程度の地点まで来ると、愛華の足取りはしっかりしてきた。とりあえずタヤマ先生を目指す。冷静に考えれば、保健の先生を目指すのがベターだが、やはり慣れたタヤマ先生に声をかける方が気楽だ。

「わたしじゃなくて保健の先生探しなよ」

と突き放されるかもしれないが、それなら一緒に探してもらえばいい。他の生徒ならそんな風にはならないが、自分の頼みなら絶対に聞いてくれる筈だ。

最後に確認した時、先生は本部テントの中に座っていた。マイクの前でアナウンスを行う放送委員のそばにいて、手伝っている風を装っていたが、サボっているのは明らかだった。校庭の真ん中で競技が行われているから、そこまで行くには大きく迂回しなければならない。他クラスの応援席の後ろや野球部のバックネットの裏。所によってはものすごく狭くなっていた。必然的に人が詰まって、スピードが出せなくなる。本部テントはここからは見えない。タヤマ先生が席を立ったんじゃないかと心配になり、前の子のかかとを思い切り踏みつけたくなる。

前から来たのはかつてのソフト部先輩だった。後片付けで球の数が足りないとねちねちと怒ってくる嫌な奴だ。暗くなるまで雑草の中を必死で探した。向こうは愛華の方などまるで気にすることなく、背中合わせですれ違った。当たり前だ。もう1年以上も前の話なのだから。

入場門の辺りまでくると、高速道路のジャンクションみたいに、人の流れがうねり出した。次の競技に出る生徒たちが独特の緊張感と期待感を醸し出しながら、周り中の友達とぺちゃくちゃおしゃべりしている。駅のホームみたいな雑踏だ。その中に数人の教師が混ざっていて、必死で点呼をとる者もいれば、生徒になにやら冗談を言っている者もいる。教師の雰囲気もいつもとどこか違う。そういえば体育祭って祭という字がつくから祭なんだろうな、とのどかに思う。念のためそれらの顔を確認してみるが、タヤマ先生はいなかった。

流れに巻き込まれて一緒に入場してしまったら笑うに笑えないので、さらに迂回をして最後尾をぐるりと回る。おかげで、学校の端の垣根のそばまで来て、外を走る車の音まで聞こえた。その音に紛れて、タヤマ先生という単語が耳に飛び込んできた。

「あいつっておっぱい大きいよな。揉んでみたくね?」

キーワードのせいで耳を澄ませてしまったが、とるに足らない男同士のやり取りだった。姿まで確認する必要はない。向こうは愛華の姿が見えなかったのだろうか。それとも見知らぬ女子に聞かれても、気にしないタイプなのかもしれない。

男子の下ネタは、たまに耳にすることがあった。彼らなりに気をつけているのかもしれないが、同じ教室内にいれば全く聞こえないなんてことはありえない。それに男子にデリカシーなんてものはない。肝心のキーワードだけ隠していても、あの独特の騒ぎ方を見ればなんとなくそういう話をしているのはわかる。そういう場面に出くわすと、佐藤さんは露骨に顔をしかめる。愛華もそれに合わせて不愉快そうに振る舞うが、どうしてそういうことに大喜びするのか興味もあった。

だが、タヤマ先生が性の対象になるとは思いもしなかった。彼らが名前を挙げるのは、女優とかアイドルとか、そうでなければアダルトビデオに出てくる女の人だった。たまに女生徒の名前も出すようだったが、そんな時はかなり声をひそめていて、具体的に誰なのかは判別できない。

確かにタヤマ先生の胸は大きい。ただそれは体格に従って膨らんでいるだけで、特に色っぽいとか思ったことはなかった。愛華はどちらかと言えば、先生の胸よりもお腹を見ていることが多い。椅子に座るとシャツが左右に伸びて、ボタンとボタンの間に隙間が開く。横皺がいくつも寄り、先生は裾を下に引っ張って、それをまっすぐにしようとする。お腹に力を入れているのがわかる。愛華はそれを見ながら無意識のうちに、自分の下腹部を触る。



タヤマ先生はまだテントの中にいた。年配の女教師と何か立ち話をしている。聞き耳を立てて、話の緊張度を探ってみるが、イマイチ把握できない。タヤマ先生がきれいな敬語を使っているせいだ。生徒に対してのよりはゆっくりとした口調で、丸みを帯びた感じがする。聞き慣れない「はい」とか「ええ」という相槌は、説教を受けてるようにも、単に話を聞き流しているようにも聞こえる。

どうにか話を中断させたいが、割り込んでいくタイミングがつかめない。それなら先生の視界に入って合図でも出したいところだが、あいにく愛華に対してちょうど背中を向けるような格好になっている。見える位置に移動するということは、テントの中へずかずかと入って行くことになる。どんな理由を考えれば、そんな行動を起こしても不自然じゃないだろうか。考えているうちに奥の中年女の方が、愛華の存在に気づき「あなた、どうしたの?」と声をかけてきた。「いえ、タヤマ先生にご用がありまして」と言えばなんでもないのに、咄嗟のことにうまく言葉が出てこない。結局振り向いたタヤマ先生に助け舟を出してもらう羽目となった。先生はまるで、自分の方から愛華を呼びつけたかのような仕草で軽く頭を下げ、テントの外に出てきた。愛華は何ひとつ満足にできない自分に腹が立ち、瞬時に愛華の気持ちを汲んで行動を起こす先生に、八つ当たりをしたくなった。「向こうで見たらサボってるように見えたから、注意しにきたんだよ」と嘘でもついてやろうかと思ったが、そんなことをしている場合ではない。

先生はすぐに救急箱を取ってきてくれた。そばにいた養護の若い教師が腰を浮かしかけたが、タヤマ先生は完全に無視した。ブルーシートの上で救急箱を開け、消毒液と大小様々な絆創膏を前に並べる。膝と聞いていちばん大きなものを選んでくれた。いつもと違ってものすごくテキパキしている。怪我人がいるからこうなのか、それとも愛華だからここまで親切にしてくれるのか。どちらにせよ、こういうタヤマ先生も悪くはない。

1番大きな絆創膏を持って、来た道を引き返す。先生は「もしひどかったら、こっちに連れてきなさいね」と言ってくれた。こっちとはタヤマ先生のところでいいのだろうか。先生には芳賀くんがケガしたとは言っていない。もし連れて行ったら今度はどんな顔をするのか見てみたい。芳賀くんからしたらたまったもんじゃないだろうが。

応援席まで戻ると、芳賀くんは自分の椅子に座り、膝には別の絆創膏が貼られていた。愛華の持っている茶色の無機質なものではなく、白くて可愛気のあるデザインが、2枚並んでいる。これだけ人数がいれば誰かしら持っているに決まっている。絆創膏の中心部にはすでに血が染み出ていて、自分こそこの足にはふさわしいみたいに振舞っている。愛華は咄嗟に手を握りしめ、自分のが見えないように隠した。くしゃくしゃになった絆創膏が、手の中でちくちくする。このまま芳賀くんが、自分に声をかけたことをなかったことにしてくれればと思ったが、後から愛華の姿を見つけると、芳賀くんは謝ってきた。クラスを夢中で応援していて、息を切らしながら声をかけてきた。愛華は自分のクラスが今何をやっているのか、全く知らなかった。



翌日、早速先生に昨日のことを聞かれた。「芳賀くん喜んでた?」と目を輝かせている。愛華は「芳賀くんじゃないよ」と嘘をついた。嘘つくな、と追求されそうで怖かったが、先生は「本当体育祭ってこの世から消えて欲しいよね」と外を見ながら文句を言っただけだった。

音楽室(7)

佐藤さんたちとのメールのやり取りは、夕ご飯を食べ終わったあたりから本格化する。しかしここであまり盛り上がってしまうと、お風呂に入るタイミングを逃してしまい、お母さんの怒鳴り声を聞くはめになる。それも鬱陶しいので、最近では食事を済ませたら速やかに着替えを取りに行き、1番に入ることにしている。たまに妹とかち合うが、容赦なく押しのける。歯磨きまで澄ませたら部屋に閉じこもり、宿題片手に延々と相手のメールに返事をつける。便利なのは宿題や明日の予定について気軽に聞けることだが、一方で切り上げるタイミングがわからず、つい夜中までやってしまう。

やり取りする内容は誰かの噂話がメインで、教師の話も多い。教室内で話す時と違って、誰かに聞かれる心配がないから、みんな必然的に口が悪くなり、大胆なことを言う。大抵の教師はウザくて、頭髪の薄い者は容赦なくハゲと呼ばれる。

愛華は一度タイミングを見計らって、タヤマ先生の名前を出してみた。本当は、聞いてみたくて仕方なかったのだが、好意を持っていると悟られるのを恐れて、なかなか切り出せなかったのである。話すことがないので仕方なく、という風を装った。

案の定「怖い」「厳しい」と言ったシンプルな単語が並ぶ。誰かが「SMの女王さまみたい」と言ってみんなが同意した。確かにタヤマ先生はサドっぽい部分もあるが、際どいボンテージ姿なんて想像したら吹き出してしまう。周りが抱く先生のイメージが、放課後のそれとかけ離れるほど、愛華は愉快でたまらなかった。調子に乗って「ムチとか持たせたらすごく似合いそう」なんて言ったら、叩かれて喜ぶのは誰かというテーマで大いに盛り上がった。そろそろ話も尽きてきたというところで、木田さんがおかしなことを言い出した。

「そういえばタヤマ先生のうわさ知ってる?」

愛華は間髪入れずに「どんな?」と返した。うっかり語尾に絵文字をつけるのを忘れて、なんだかさもしい。どうしてこんなもったいぶった言い方をするのだろうか。握りしめた携帯の画面は、いつまでもメールの受信画面に切り替わらない。焦らしているわけではないだろうが、木田さんは空気を読まないところがある。ドラマでも見出したのかもしれない。いっそ電話でもかけてやろうかと思ったところで、ようやく受信音が鳴った。

「タヤマ先生って昔、生徒と付き合ってたらしいよ」

ソースは木田さんの2歳上のお姉ちゃんで、先生が前の学校にいた時の話らしい。てっきり「不潔!」とか誰か言うのかと思ったが、佐藤さんが「あんな先生でも付き合う男がいるんだね」と極めて冷静なコメントを表明し、話題は一気に収束した。愛華は聞きたいことが満載だったが、流れ的に不自然になるのは明らかで、仕方なく何度も木田さんのメールを読み返し、限られた文字数から何かしらの意味を得ようと試みた。噂話であることはわかっている。前の学校、なんていかにも胡散臭い。だが、100%嘘とは限らない。部分的には真実ということだってありうる。例えば今の自分のような存在。前の学校で、男の子を音楽室に招いたのかもしれない。もし今音楽室でタヤマ先生と会っていることが知られれば、やはり噂になるだろう。松永愛華とタヤマ先生はできている、と。

仮にタヤマ先生が男子を部屋に招いたことが真実だとしても、それは過去のことだ。気にする理由なんてどこにもない。

それなのにその男子生徒はどんなやつなのかと考えている。タヤマ先生は以前「年下と付き合うなんてあり得ない。頼れる人がいい」と言っていた。あれは嘘だったのか。それともその男子のせいで年下には懲りたのだろうか。



佐藤さんたちと親しくなって唯一困ったことと言えば、放課後一緒に帰らなければならないことだった。

佐藤さんは美術部、木田さんと篠崎さんは吹奏楽部に所属している。文化部は運動部のように熱心ではないため、週に1日か2日、部活がない日がある。そんな日は放課後、当たり前のように迎えがくる。別に一緒に帰るのは嫌ではないが、タヤマ先生の日と重なれば、言い訳をしなければならない。面倒だ。一度や二度なら適当な言葉で誤魔化せるが、何度も続けば怪しまれる。一緒に帰るのを嫌がっていると勘違いされたら、変な溝ができそうだ。いっそ正直に会っていることを話そうかと思うが、やはりそれは絶対にできない。タヤマ先生に対して強い態度が取れるカラクリがバレれば、間違いなく愛華を見る目が変わるだろう。

だが、本当に愛華が恐れているのは、佐藤さんに自分の立場をとって変わられることだ。ある日愛華が音楽室を訪れると、佐藤さんが上履きを履いたまま絨毯に上がっていて、タヤマ先生とピアノの上でお菓子を食べている。2人とも大笑いして、食べカスが口からぽろぽろとこぼれている。入り口に立ち尽くす愛華の存在にやがて佐藤さんが気付き、おいでおいでと手招きをする。最悪だ。

ついにそんな場面を夢にまで見た愛華は、タヤマ先生の日は園芸部の活動日として誤魔化すことにした。妙案とは言えないが、これ以上のものは思いつかなかった。実際はまだソフトボール部に籍は置いているが、そんなことを知っている者はもう誰もいない。それにタヤマ先生は園芸部の副顧問なんだから、完全に見当違いとも言えない気がする。

「今日部活だから」と言うと案の定佐藤さんは「え?部活やってたの?」と目を丸くした。「うん、園芸部」と答えるだけで充分なのに、今まではほとんど活動しなかったのに、最近急に先生が張り切り出して嫌になっちゃう、と勝手に尾ひれをつけて説明した。これではかえって怪しい。職員室前の花壇が部のものだとか、植えようとするのはかすみ草だとか、まだまだ言いたいことはあったが、とりあえず自然を装うために、黙っておいた。園芸部に関しては誰も興味を持たなかったようで、結局それ以上言う必要はなかった。

架空の園芸部について、タヤマ先生には黙っていることにした。先生には佐藤さんたちと、親しくしていることも話していない。クラスメートのことは芳賀くんのことを話題に出すくらいだ。タヤマ先生の中で、愛華はもしかしたら誰も友達のいない、孤独な少女と思われているのかもしれない。そう思うと、なんとなく話すことを躊躇ってしまう。



同じ理由で携帯のことも話さないようにしていた。だが、四六時中画面に文字を打ち込んでいると、タヤマ先生も同じようにメールを打つのかとか、どんな携帯を持っているのかが気になってきた。タヤマ先生に限らず、教師が学校で携帯電話をいじっている姿は見たことがない。おそらく規則で生徒の前で晒してはいけないことになっているのだ。まさか今時携帯を持っていないわけない。タヤマ先生のことだから、持っているのはおそらくピンク色の丸っこいやつだ。結構物を雑に扱うから、表面にはきっと傷がついている。チャンスがあったらアドレスも聞いてみよう。メールもするようになったら、佐藤さんに間違って送らないよう気をつけなくてはいけない。

携帯とか持ってるの? の問いに先生は「持ってるよ」となんでもなさそうに答え、机の脇のトートバッグを手で漁った。どんなものが出てくるのか見ていたら、中から取り出したのは、しわくちゃのコンビニのビニール袋だった。扱いが雑なのは予想通りだが、何か雰囲気が違う。袋を鷲掴みにして愛華の机の前まで持ってくると、ざざあと中身をあけた。3台の携帯電話がぶつかり合いながら、ごとごとと音を立てて出てくる。色や形に統一性はなく、鬱陶しいほどストラップの付けられたものや電池パックが取れ、画面が割れているものもある。まさかと思って顔を上げると、先生は満面の笑みで

「これはいわゆる戦利品というやつですね」

と胸を張った。たまに授業中にうっかり着信音を出して、教師に携帯を没収される生徒はいる。が、タヤマ先生の前でそれをするなんて命知らずな生徒もいるものだ。タヤマ先生なら怒ってその場でへし折ってしまうかもしれない。実際タヤマ先生が怒っているところを、見たことがないからわからないが。大抵の教師は、生徒が騒がしくしていると簡単に怒鳴り散らすが、タヤマ先生は佇まいだけで生徒を黙らせる。男子が「タヤマがマジギレしたらお前死ぬぞ」と話していることがあったが、確かに死人がでるかもしれない。

「どう?これなんかかわいくない? 愛華ちゃんにはファンシー過ぎる?」

先生は、真っ白な石鹸のような機種を取り上げ、服の試着みたいに愛華にくっつけてくる。先にはアンバランスに大きなクマのストラップがついている。貝をあけるみたいに親指を突っ込み、片手で中を開くと、画面の周りにはたくさんのシールが貼られていた。使っていたのは間違いなく女の子だ。

愛華が答えに窮していると「取りにこないんだよね、この人たち。もういらないんじゃないかな」と何も写っていない画面を眺めながら先生がつぶやく。持ち主の子は、タヤマ先生が怖くて来れないのかもしれない。気の毒だ。ストラップの熊だって、飼い主の元へ帰りたいだろうに。

「だから、あげてもいいよ」

そんな愛華の妄想をぶち破るように、先生はお茶目に言ってくる。「ありがとう」と手を出したら本当にくれそうで怖い。強く断ると「いいじゃん、携帯デビューしちゃいなよ」と、手に押し込もうとする。愛華は必死に押しとどめようとする。息が切れるまでじゃれ合って、そのうち熊のストラップが切れてしまった。やっぱり先生は、愛華が携帯を持っていないと決めつけている。

「いらないって。わたし自分のあるもん」

と拒否すれば、不毛な押し付け合いはすぐに終わり、熊も地面に落ちることもなかったのだ。でも、先生の中で形作られている〈愛華のキャラ〉に気を遣って、言い出すことはできなかった。先生は笑いながら「あーあ死んじゃった」と言って熊を踏んづけた。

「返さなくていいの?」

「ていうか、誰のだったか忘れちゃった」

音楽室(6)

2学期になって改めてクラスの係を決める時になると、音楽係に立候補する者は愛華以外いなかった。1学期の時は定員2名に4人も手を挙げたのに、今やすっかり不人気の係となってしまった。おかげで愛華は悠々と黒板に自分の名前を書くことができた。1学期の時も立候補しかけたが、髪の長い、プライドの高そうな女子に遠慮して手を挙げ損ねてしまった。はっきりとした決まりはないが、音楽係はやはりピアノができたり、音楽的素養のある人がなった方がいい。話し相手になれるだろうし、授業で代わりに伴奏を弾くこともあるからだ。ちなみに一学期にもそんな場面があって、おそらく幼い頃からピアノを習っている音楽係の今井さんが、椅子の高さをもったいぶって調整してから弾いたことがあった。が、前奏を3度やり直しさせられた挙句

「いいです。やっぱりわたしが弾きます」

と戻されてしまった。席に戻る時の真っ赤な顔がよく見えた。ざまあみろという気持ちもあったが、その前に「わたしピアノ得意です」とかアピールしたんだろうなとか考えていたら気の毒に思ってしまった。授業の後、教室に帰ると、今井さんは友達に囲まれて泣いていた。

「だってあの子のピアノ、リズム悪いし左手の音が弱い2し気持ち悪くて。あと生意気だったから」

今井さんをピアノから引きずり下ろした理由について、後から先生はそう説明した。生意気だった、が主たる理由なのは明らかだ。でももちろんそれを抗議するつもりはない。今井さんが調子に乗って、ピアノを使ってタヤマ先生に取り入ろうとしたのが悪いのだ。取りいる、と言うと言葉が悪いが、タヤマ先生に気に入られれば、みんなから一目置かれるという空気はクラスの中にはある。

今井さんの話の流れなのか、タヤマ先生はピアノの蓋を開け、昼間の曲を弾き始めた。授業の時は、今井さんの演奏とそれ程変わらないように感じたが、先生のすぐそばに立つと、全然別物に感じる。まず指の動きに目を奪われる。手の甲の骨が盛り上がり、それ自体も鍵盤の一部みたいに規則正しく上下する。手首から先はほとんど力の抜けたような状態で、最低限の動きしかしない。まるで工場の機械のようで、音を生み出すことのみに存在するかのようだ。音自体は綺麗というより荒々しい。叩かれた弦から伝わる空気の振動は、鼓膜だけでなく体全体を揺すってくる。音符は複雑に重なりあってるくせに、耳に入るとそれがほどけて、何の抵抗もなく体全体に染み入る。

歌の部分になると、先生は愛華を見ながら口をぱくぱくさせた。歌えという合図だ。愛華は脚を開き、背筋を伸ばした。声はピアノの音よりもずっと小さかった。そこにタヤマ先生も自分の声を重ねてくる。ちょっとふざけた歌い方だ。でも誰かが歌ってくれると、やりやすい。愛華の声が自然と大きくなって、そうすると先生はさらに大きな声を出して邪魔をしてくる。歌詞を間違えると、愛華を馬鹿にした目で見ながら、正しい歌詞をかぶせる。

ラストまで歌って終わりかと思ったら、ちょっとエレガントな間奏を挟んで、また最初に戻る。変な抑揚をつけたり、演歌みたいにこぶしを効かせたり、最後はお互い叫び声になって終わった。タヤマ先生のピアノも、ジャズのソロみたいになって完全に収集がつかなくなっていた。一体どれくらいの時間歌い続けたのか。

「いつもより全然声出てるじゃん」

息を切らせながら先生は大声で笑い、愛華をからかった。愛華も上気する顔を手で仰ぎながら「先生だって、授業よりピアノ上手」と言い返した。声がガラガラで、喋ると喉が痛かった。先生は「これでも昔は留学の話とかあったんだよ」と照れ臭そうに言った。



愛華と一緒に音楽係やることになったのは、じゃんけんに敗れて流れてきた、佐藤さんという子だった。佐藤さんは愛華と同じような目立たないタイプの女子で、背も低かった。極端にタヤマ先生を恐れていて、直に怒られようものならそのまま登校拒否にでもなりそうな感じだった。必然的に愛華が引っ張る立場になり、職員室へ行くときも、先に敷居をまたがなければならなかった。いつも友達に自己主張できない愛華にとっては、新鮮なことだった。これで会いに行くのが別の教師なら、愛華も胃を痛めるところだが、相手は腹の中まで知り尽くしたタヤマ先生だ。タヤマ先生の席は、職員室のちょうど真ん中あたりあって、両サイドを数学と理科の教師に挟まれている。どちらも中年の男で、机に積み上げられた書類が、半分くらい先生のエリアに入っている。先生の机の上にはノートパソコンが一台ある他には何もなく、人間味が何も感じられない。先生も居心地悪そうにしている。

ある時クラス全員分のアルトリコーダーが入ったダンボールを運ぶように言われた時、愛華はわざと「こんなに運ぶんですか? 先生もひと箱運んでくださいよ」と言ってみた。佐藤さんが後ろで目を白黒させているのが見ないでもわかる。先生も動きを止め、愛華の目を凝視した。愛華も目を逸らさない。やがて「そうですね。手伝いましょう」と言って、一番大きなダンボールを持ち上げた。きっと後で「愛華ちゃんのせいで筋肉痛になった」と文句を言うんだろう。先生の情けない顔を想像して危うく笑いそうになる。タヤマ先生が大きな荷物を運ぶのが珍しいのか、他の教師はこぞって道をあけてくれた。若い体育教師が近づいて来て「運びましょうか?」と声をかけてきたが先生は「いえ」とひと言であしらった。

運び終わってから佐藤さんは案の定泣きそうな顔をしていたが、愛華は「別に大したかとないじゃん。先生だってダイエットになってよかったんじゃない?」とわざとクールに言い放った。

その一件以来、佐藤さんは音楽の時間に関係なく、休み時間になれば愛華の机に来るようになった。佐藤さんは仲良しの子が他に2人いたので、おかげで愛華の机は活気が溢れるようになった。愛華はソフト部の一件以来、仲のいい子がいなかっため、誰かに慕われることに戸惑ってしまった。だが、それを拒否する理由もなく、2、3日もすると愛華の方から佐藤さんの机に遊びに行くようにもなった。

グループで行動すれば、多くの情報が簡単に手に入るし、いじめのターゲットになるリスクも減る。

だが一方で、常に一緒にいなければならないという煩わしさもある。トイレに行くタイミングまで相手に合わせなければならないのは、1人で行動することに慣れた愛華には苦痛だった。

おまけにグループ内で携帯を持っていないのが、愛華のだけだということがわかり、慌てて買いに行く羽目になった。欲しくないわけではなかったが、今まではメールをする相手もいないので不要だと思っていたのだ。

だが、突然携帯が欲しいと言って、愛華の親がいい顔をするとは思えない。月々の使用料は未知の領域だが、それで裕福ではない家計を圧迫するのは気が引ける。だが、食事の用意をしている母親にそれとなく切り出してみると、思いのほか感触はよかった。その夜父親が帰ってくると早速報告され、父親も「じゃあ今度の休みにでも」と話はどんどん進んだ。親からしたら、来るべき時がきた、という感じだったのだろうか。どうやら親同士のコミュニケーションで、今や携帯電話は小学生でも普通に持っていて、中学生なら持たないと仲間はずれになると聞いたらしい。

機種については新しい物を店に買いに行くという話になった。佐藤さんたちは、みんな親のお下がりを使っているのだから、無理して新しいのを買う必要はない。お母さんの古いやつでいいよ、と一応遠慮してみるが、取り合ってはもらえなかった。グループの木田さんは携帯を欲しがったら、それをダシに父親は今使ってるものを娘に押し付け、自分は最新機種を手にしたとのことだった。木田さんは真っ黒で傷だらけのを使っている。それに比べれば愛華の家は、理解のある両親となるのだろうが、おかげで友人たちにどう思われるかわからない。

愛華は言い訳として「お母さんの前のは水没しちゃってつかえなくて」と考えてから、皆の前に新しい携帯を披露した。が、佐藤さんたちは悲鳴に近い声で愛華の携帯を褒めまくった。言い訳をするなんて杞憂に終わった。

音楽室(5)

芳賀くんとは2年で同じクラスになり、進級してわずか1週間でそのことをタヤマ先生に話してしまった。

「新しいクラスにいい人いた?」

という問いに、まず最初に彼の名前が浮かんだ。単に目に留まっただけの存在だから「特にいない」と答えればよかったが、しらけるような気がして「ちょっと気になる」なんて言ってしまう。先生は1オクターブ高い声で舞い上がり、身を乗り出して芳賀くんの外見的特徴や、部活などを聞きまくってくる。遠目に見ているだけの存在なのに、わかるわけがない。答えられずにいると、恥ずかしがって喋らないんだと勘違いをし、ますますはしゃぎ出す。その後授業で芳賀くんの顔を確認すると「あれは中学生にモテる顔だね。やばい」とハイテンションになり、女友達のように「彼女がいないといいね」と励ましてくる。愛華はそんな先生のテンションについていけなかったが、からかわれるのは嫌ではなかった。クラスメートに言いふらされる心配もないから、言い回しやニュアンスに気を配る必要もない。

「わたしが担任なら、すぐに隣同士の席にしてあげられるのになあ」

口元に笑みを浮かべながら人差し指を顎にあて、残念そうに先生はつぶやいた。

タヤマ先生はどのクラスの担任でもないが、2年生全クラスの音楽を受け持っている。

授業は第二音楽室で行う。その時になって初めて知ったが、赤い絨毯は土足禁止で、みんな当たり前のように上履きを下駄箱に入れていた。もし自分が一番乗りだったら、クラス中の非難の的になっただろう。靴下で触れる絨毯はやわらかさよりも、ざらざらした感触が際立った。長い期間の使用で、表面の柔らかい部分は全て擦り取られてしまったに違いない。きめの間に汚れが詰まっている気がして、足の裏をつけるのに抵抗を覚える。つま先立ちで歩きながら、タヤマ先生がスリッパを履いたままの理由を理解する。

そんな先生も、始業のベルが鳴ると、ちゃっかりスリッパを脱いで入ってきた。黒いストッキングのかかとをぺったりと床につけ、なんとなく無防備な感じがする。きっとあのストッキングは安物だ。それなのにすました顔をしているのが滑稽で、吹き出しそうになる。「学校の先生みたいな顔をしてる」とからかってやりたくなる。

ある程度予想はしていたが、授業の雰囲気は放課後のそれとはかなり違っていた。30人以上の人間がひしめくと、他の教室と大した差もなくなってしまう。窓際の、昨日先生が座っていた席には坊主頭の野球部が座り、教科書をメガホンみたいに丸めている。その場所で昨日、先生がクッキーを口にいれたまま吹き出し、かなりの食べカスが飛んだなんて夢にも思わないだろう。



タヤマ先生の様子も全然違っていた。授業を受けてみてわかったが、先生は生徒の人気を集めるタイプの教師ではない。新学年が始まって最初の授業は、顔合わせということもあって、比較的緩く行われることが多い。生徒一人一人に自己紹介をさせ、その後で自分の家族構成や趣味を延々と語って終業のチャイムまで持ち込む教師も多い。授業もガイダンス的に触れる程度で、生徒の方も教科書やノートが全部揃っていなかったりする。

だがタヤマ先生の場合は、初回授業定番の"黒板に名前を大きく書く"を行うこともなく(先生はチョークが嫌いだった)

「音楽担当のタヤマです」

と短く挨拶を済ませ、何をするのかと思ったら全員を席から立たせて校歌を歌わせた。ピアノの前に座って蓋を開け鍵盤に指を置くという流れを必要最低限の動きで行い、にこりともしない。

校歌は一年の時から何度も歌わされるので、歌詞は完璧に頭に入っていて、どこで盛り上げるのかもよくわかっている。が、歌い終わると先生は「もう一度」と言って、再び前奏を弾きはじめた。何を注意されたわけでもないが、先生が今の歌に満足していないのは雰囲気からして明らかで、2回目は最初にあっただらけた空気は完全に消え、愛華も声を張った。

歌が終わると先生は立ち上がって、生徒たちの前にきて

「全然声が出てない」

とだけ言った。大きくはないが、よく通る声だ。音楽室内の隅々まで届くように、声量は計算しつくされているのかもしれない。先生は手拍子を取り始め、今度は伴奏なしで歌うことになった。1番の途中からその手拍子もなくなり、先生は生徒たちの間を通り抜けて行った。1人ずつ歌声を確かめようと言うのだ。ある男子生徒の前で立ち止まり、しばらく耳を傾けると、その生徒を教壇の前まで連れ出した。

3番が終わるまでに5人ほどピックアップし、再び手拍子が始まり1番から歌い出す。5人はこちらを向いて唄わなければならない。見せしめであることは明らかだった。まだ半分ほどの生徒しかチェックは済んでおらず、愛華のところまでこないうちに授業が終わることは、残り時間からしてもあり得ない。

愛華は必死で歌詞を辿った。放課後タヤマ先生をからかってやろうと、無邪気に思っていた頃が懐かしい。声が震えてきている気がするが、全員の歌声に紛れてよくわからない。前に出された生徒は後から説教でもされるのだろうか。そうでなくても今こうして衆目にさらされているだけで、十分屈辱だ。左端の女の子は真っ赤な顔をして、口を目一杯開いている。

いよいよタヤマ先生は愛華の列に来た。前から順番に生徒の歌声をチェックする。問題がなければ素通りするが、気になるとその場にとどまって耳を傾ける。今ふたつ前の席の子が、前へ出るよう指示された。愛華よりもずっと頭の良さそうな子だ。あの子がダメなら、自分なんて絶望的だ。

前の席の横を通りぬけて、いよいよ愛華の番がくる。斜め前で立ち止まり、目をつぶって愛華の声を聞き分けようとしている。素通りしなかった時点で、状況は良くない。愛華はこれまで以上の声を出そうとするが、喉にばかり力が入って、ヒステリックになるだけだ。お腹から声を出すということができないのだ。

愛華は前を向いたまま、視線は前の子の後頭部に釘付けだった。髪は黒いゴムでひとつに纏められている。もしかしたらそれはゴムではなく、それもその子の髪の一部なのかもしれない。怖くて先生の方なんて見られない。が、それでも視界の端で、タヤマ先生が目を開き、こちらに顔を向けたことはわかった。言われる。

だが、タヤマ先生は再び前を向き、そのまま歩き出した。目だけ横に動かすと、先生の視線は次の生徒に向いている。助かった、と思った瞬間肩の力が抜け、背中に相当の汗をかいていることに気づいた。その汗が背中の熱を一気に奪い、まるで体育の授業の後のような清々しさを覚える。

そう愛華が安堵した瞬間、手に何かが当たった。慌てて手を引っ込める。横を通り抜ける時に、先生の手がぶつかったのだ。愛華はすぐに、それが故意にぶつけてきたのだと理解した。先生はわざと立ち止まり、愛華のことをからかったのだ。この数秒間の極限状態は、一体何だったのだろう。愛華はその場で振り返り、先生の背中に言い訳や負け惜しみをぶちまけたかったが、ただ恥ずかしさに耐えながら歌い続けるしかなかった。

愛華ちゃんの顔、マジ傑作だったわ」

放課後、愛華が音楽室の戸を引くと、タヤマ先生は駆け寄ってきて満面の笑みでそう言った。本当顔真っ赤だった、声も震えてた、と次々に言葉を浴びせてくる。そこら中をうろうろしながら、愛華の頭を撫でたり、手を触ったりした。スリッパのぺたぺた音が鬱陶しい。調子に乗って「可愛かった」とまで言ってきたので、不機嫌そうにしたら、ようやく何も言わなくなった。

「わたしが愛華ちゃんに意地悪するわけないじゃん」

声を弾ませながら、タヤマ先生は言い、紅茶を入れてくれた。先生の言う意地悪は、愛華の前で立ち止まったことではなく、教壇の前に出すことを指している。年明けの頃から、先生は音楽室に電気ケトルを持ち込み、2人で紅茶を飲むのが恒例となっていた。お詫びの印なのか、砂糖も先生が袋の封を切って入れてくれた。愛華は半分しか入れないのに、先生は自分の分と勘違いして勢いよく全部投入した。愛華は、溶けきれないで底に残った砂糖を眺めながら、どうして自分が先生にとって特別なのかと考えた。



次の授業では、一時間丸々歌わされるということはなかったが、それでも他の教科よりも圧倒的に緊張感があった。おそらく最初に校歌を歌わせたのは、生徒の歌声を聞くためではなく、自分のやり方を生徒に示すためだったのだ。タヤマ先生は基本的に敬語で、背筋もぴんと伸びている。冗談も言わないし、声を出して笑ったりもしない。当たり前だがお菓子も出てこない。生徒に質問をする時も、完全にランダムで選ぶ。他の教師なら、例えば今日は10日だから出席番号10番、と最初の生徒を決め、そこから前後に答えさせる生徒を移動する。そういう規則性を生徒たちは素早く読み、自分が当てられる可能性を探って準備を行う。しかしタヤマ先生の場合、そういったことは一切ない。名前を呼ぶ時に、生徒の顔すら見ないので、表情でどの辺りを狙っているのかを予想するのも不可能だ。男女を交互にするといった配慮もなく、1回の授業で3回名前を呼ばれた生徒もいる。一度当てられたからと言って、安心はできない。

そんな中でもやはり愛華は特別だった。夏休みまでで呼ばれたのは1度だけで、しかも教科書の一部分を読ませるという、負担の少ない仕事だった。10回以上指名されている生徒もいたから、1度だけというのは不自然だ。だが、タヤマ先生のやり方では偏りがあるのは当然と皆思っているのか、愛華の発言が少ないことを指摘する者はいなかった。他の生徒は、リコーダーで延々とソロを吹かされたり、バロック音楽についてのレポートを発表させられたりしている中で、おそらく愛華だけがリラックスした気持ちで授業に臨んでいた。

音楽室(4)

「その芝生田って子はね、この前一家揃って夜逃げしちゃって行方不明なの。そんで、どうしようかって話。まあ退学にするんだけど」

先生がぽつりと言った。てっきり書類を綴じるのに夢中になっていると思ったのに。愛華は一気に血の気が引いて、思わずその場にしゃがみ込みそうになる。何か咎められる前に「すみません」と謝る。

「そんなの大したことじゃないよ。3年生は噂でだいたい知ってるし」

愛華の手の中の書類を取りながら、先生は言う。1人の生徒の退学よりも、書類がきちんとホチキス留めされる方が余程重要なことのような言い草だ。予想とは完全に違う先生の言動に、愛華はあっけにとられてしまった。

作業が終わると、タヤマ先生は綴じ終わった資料を袋に詰め、お礼、と言ってクッキーを2枚くれた。何の変哲もない、個包装された市販のものだ。家でも時々お母さんが買ってきたものをテレビを観ながら食べるが、学校では見るのは初めてだ。「また来てね」と先生が出口のところまで送ってくれて、愛華は音楽室を後にした。

笑顔で言った、タヤマ先生の「また」はどうせ社交辞令に決まっている。そう思ってるくせに、愛華は帰り道、再び先生に会いに行くことを考えていた。気がつくと学校脇の垣根を通り過ぎていて、振り返るとソフト部が後片付けをしていた。頭がぼんやりしていて、そういえば下駄箱で靴に履き替えた記憶がなかった。鞄に手を突っ込んで、クッキーが入っていることを確認し、思わず笑ってしまった。辺りはもう薄暗くなってきている。家に帰ったら「先生の手伝いをしてた」と遅くなった理由を話そう。それは決して嘘ではないのに、どこか背徳感のある言い回しに思えた。



別に向こうからしたら、都合が悪ければ断ればいい話なので、それならこっちが行きたい日に音楽室を訪ねればいい話だ。そうは思っても、翌日、翌々日はなんだかがっついているみたいでみっともなくて、結局思い立ったのは週が明けてからだった。教室から誰もいなくなるまでノートを開き、宿題をするふりをして時間を潰す。3階に上がる階段はこの前とは違うところを選び、3年生とは顔を合わせないコースを選んだ。急ぐ必要もないのに階段を駆け上がってしまい、無意味に息を切らしてしまう。運動不足だな、なんて思いながらも、この苦しさがちっとも嫌じゃない。ところが、いざ音楽室のドアの前に立つと、中から合唱する声が聞こえた。愛華は反射的に階段のところまで下がって、どういうことなのか状況を整理してみた。音楽部だろうか。考えてみたら音楽室は2つしかないのだから、放課後部活で使うのは当然だ。タヤマ先生はもしかしたら音楽部の顧問で、部活もせずにふらふらしている愛華を部に入れたくてこの前は声をかけてきたのかもしれない。タヤマ先生と一緒に毎日合唱三昧。それも悪くない気がする。そう思うくせに、何故か気持ちは沈み、ドアを開ける勇気なんて起きず、愛華は再び階段を下った。

家へ帰ってベッドに寝そべると、自分の不甲斐ない行動を嘆き、明日は勇気を出してドアを開けてやろうという気持ちになる。以前聞いた時音楽部の子は、確かにタヤマなんて教師は知らないと言った。それならもう一度行って、きちんと確かめるべきだ。

次の日、再びドアの前まで行ってみると、今度は物音ひとつしなかった。震える手を抑えながらノックをしてみると、女の人の返事が聞こえた。タヤマ先生の声のような気がするし、違う人のものにも聞こえる。もし違ったら「タヤマ先生はいらっしゃいますか?」と尋ねればいい。確かに先週ここで会ったのだから、不自然な質問じゃないはずだ。

ゆっくりとドアを引いてみると、果たしてタヤマ先生がこちらを見ていた。窓際の席に座り、手にはペンを持っている。「あら、愛華ちゃん」

先週別れ際に名前を聞かれて、名乗ったら「じゃあ愛華ちゃんて呼ぶね」と言われた。ちゃん付けで呼ぶ先生なんて、小学校の、それも低学年以来だからものすごい違和感を覚えた。でも、今そう呼ばれると、自分は忘れられてなかった、と心底安堵した。思わず小走りになって、先生の元へ近づき犬みたいな自分、と心のなかで失笑してしまう。



「月、水、金。あとたまに土曜日は音楽部が練習に使うの。それ以外は私が。まあ勝手に使っちゃってんだけど」

前日の不在について、そう教えてくれた。一応音楽の教師だから、ピアノの練習もしなきゃだしね、と机の上で鍵盤を叩くジェスチャーをする。その割に、この前もそうだったけど、まだピアノを弾く姿は見たことない。愛華の怪訝な表情に気づいたのか

「わたし職員室あんまし好きじゃないんだよね、人いっぱいいるし、煙草臭いし」

と照れ臭そうに言う。職員室が好きじゃない、とはっきり口にする教師なんて初めてだ。つくづく不思議な人だと愛華は思うが、もちろんそんなことは口に出せない。不思議な人、という形容が場合によっては失礼になるからだ。じゃあどんな風に言ってあげたら喜ぶだろう。そんなことを考えながら突っ立ってると、やがて先生は「座ったら」と隣の席を顎で指した。

愛華が椅子に深く腰掛けると、タヤマ先生は自分の机を愛華のものにくっつけ、横に置いたバッグから飴とチョコレートの袋を出してきた。それを逆さまにして、愛華の前に全部あける。遠慮する隙を与えない。これじゃまるでお菓子目当てでここへ来てるみたいだ。

仕方なく、愛華は飴をひとつ取った。レモン味の、のど飴だった。

「やっぱり、音楽の先生だから、のど飴なんですか?」

なんとか自分から話をしたくて愛華が包のラベルを指さすと、先生は顔を声を裏返しながら愉快そうに笑った。

「面白いこと言うんだね。これはね、味が好きなだけ。わたしは歌わないよ」

音楽教師だということを考えて聞いたのに、そんなに間抜けな質問だったのだろうか。愛華は慌てて包を破いて、飴を口の中に放り込んだ。

話を聞いてみるとタヤマ先生は、音楽部とも吹奏楽部とも全く関係のない人間で、じゃあ何部の顧問なのかと聞いてみると、園芸部の副顧問とのことだった。土いじりをするイメージなんて微塵も感じないので問い返すと、案の定活動には一度しか出たことがないと言う。

「わたし部活とか好きじゃないから」

その言葉に親近感を覚え、愛華はソフト部に入部してから幽霊部員になるまでのいきさつを、先生に打ち明けることにした。「わたしも部活とか苦手なんですよね」とさらりと言うつもりが、一度話を始めると止まらなくなり、本当は吹奏楽部が良かったことや、ユミちゃんなんて初対面から気に食わない女だと思っていたことまで、もれなく喋ってしまった。こんなにも長い時間、自分の身の上を他人に話すことなんて初めてだ。そのせいなのか、最後の方はしゃっくりが出て、止まらなくなってしまった。

愛華は話をしている間、先生が退屈してるんじゃないかと気になって、途中何度も顔色を確認した。先生は途中から頬杖をついて話を聞いていた。余計な口を挟まずに目をこちらに向け、口元に微笑みを浮かべている。とりあえず興味を持って聞いてくれているように感じた。だけど眼鏡の向こうにある、くっきりとした二重の目をずっと見ていると、自分の中の怯えまで見透かされているような気になった。

話が終わるとタヤマ先生は、水筒を出して愛華に紅茶を勧めてくれた。すっかり小さくなっていた口の中の飴が、流し込んだ紅茶によって一気に胃の中まで落ちていく。

愛華ちゃんもそういう集団行動できない人だから、それは仕方ないよ」

先生の感想はただそれだけだった。それなのに愛華は自分の言いたいことが、十分に伝わったような気がした。

それから愛華は、タヤマ先生のいる放課後には、必ず音楽室を訪れるようになった。