本屋をぶらぶらしていたら高橋源一郎の「飛ぶ教室」というラジオ番組のコメントをまとめた本が売っていて立ち読みしたら楽しかった。楽しかったというか高橋源一郎を読んだときのほんわかしたかんじが懐かしかった。本は買わなかったが家に帰ってからラジオを聞いた。2/2放送回が2/9まで聞けるとあるのでそれを聞いた。スマホで聞いていたら途中でなぜか中断するので最初はその都度再生したがやがて聞くのをやめた。
高橋源一郎の話の中にドストエフスキーの「悪霊」のことが出てきた。そういえば私はドストエフスキーの「悪霊」のニコライ・スタブローキンが年端も行かない女をレイブしてしかも女が絶望して首をくくるところを隣の家から眺めていたというエピソードを読んで強烈に小説を書きたいと思ったことを思い出した。それは高校二年のときでそれから高校卒業まで私は小説を書き続けた。高校を卒業してからは漫画を書いた。実は私は「悪霊」そのものを読んだのではなく確か遠藤周作の本にそのエピソードが紹介されていて間接的に心を揺さぶられたのであった。それは振り返ってみれば幸運な出来事でありそれから10年以上経ってから「悪霊」を読んだが内容はほとんど理解できなかった。思い出せる登場人物はシャートフとワルワーラ夫人くらいである。
高橋源一郎のラジオの中でも「悪霊」のニコライ・スタブローキンの例の首をくくる少女のくだりを紹介していて、私は(みんなあそこが気に入るんだな)と感心した。しかし高橋源一郎のほうがプロなのでそれに続いて「哲学者や文学者は言葉には限界がある、言葉ですべてを言い表せないことを知っている」と述べた。スタブローキンの悪行について、スタブローキン自身は手紙の中で懺悔を行うがその悪行の悪が強すぎて言葉での懺悔は不可能なのである。しかし物語の中での行動が実は懺悔となる仕掛けになっていて、読者は結果的にスタブローキンの懺悔を聞いたのと同じになるとのことだった。
実は私は以前にもどこかで「言葉ではすべて言い表せないが、小説は「言い表せない」と言うことで言い表すことができる」というのを聞いたことがあって、なので前段の説明については「悪霊」そのものが理解できなかったのと同様理解できなさそうだったが、言わんとすることはわかったし、やはり懐かしい気持ちになった。どうして懐かしいのかと言うと長い間そういうのを忘れたふりをしていたからである。ラジオの中で高橋源一郎は「哲学者はすべてを疑う人だ」と話していて私もそういうのを心がけていたこともあった。しかしそのような態度は周囲を困惑させることが多い。