意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

活字はがれ

私は自分が本が好きだとか読書家というふうにはあまり思ってなくどちらかといえば他にやりたいこともないからやむにやまれず本を読むという感じだ。何をやっても飽きるか嫌になる。その点仕事は常にいろんな方向から「やれ」と言われるから楽だ。嫌でもなんでも「お金もらえるから」と言い訳が立つのも良い。友達に遊びに誘われても「仕事だから」と断ることができる。例えばこれが仕事以外の用事で断ろうとすると「なんで?」と訊かれたりして関係がこじれたりする。仕事といえばかなりの確率で「じゃあしょうがないか」となる。仕事というものの何よりもまず優先されるかんじがすごい。


一方で仕事ばかり優遇されるのはいかがなものかとも思う。特にサラリーマンだと朝起きて同じ時間に同じ場所に律儀に通うがそれは実に奇妙だ。昔高田馬場に通ったことがあり高田馬場は家から一時間半以上かかりあるとき駅から出ると雨が降っていて私は傘を持っていなかった。なぜかというと家を出るときは晴れていていや曇りだったかもしれないが駅までは妻の車に送ってもらっていたから天気には頓着しなかったのである。それで一時間半電車に揺られて駅を出たら雨が降っていて私は濡れるのが嫌だから帰ろうと思った。イエモンの歌でも雨が降って靴が濡れるのが嫌だからバイトを休むかどうか悩む歌がある。しかし私はコンビニでビニール傘を買って会社へ行った。私は自分がすごいなあ機械にでもなったみたいだと思った。習慣づいたものを続ける力というのはものすごいのである。大して楽しい会社でなかったし休憩時間に卓球台があってそこで卓球などをする会社でそういうのはいかにも楽しそうな感じがするが私はそういうのはまるで楽しめなかった。やっているときは一生懸命で社長とか相手でも本気でやって負ければ悔しがり家に帰ると筋肉痛になってそれが楽しんだ証のようにかんじたりもするが実は一生懸命の私はそれほどそのイベントを楽しくかんじていない。昔友達の家で鍋パーティーをやったときに複数の友達が友達の実家でお母さんと一緒にネギだの白菜だのを切るとき私だけは勝手にビールを開けてテレビを見ながら飲んでいる。「お前少しは手伝えよ」と言われながらも動じることはなくそのうち手持ち無沙汰にしているやつを見つけると缶ビールを手渡して一緒に飲む。やがて支度を終えたお母さんが箸やコップを持ってきたときにさっと立ち上がり私は率先して手伝い始め途中から飲み始めたやつを指差し「あいつ何もしないで勝手に飲んでるんですよ」と裏切り「お前マジふざけんな」となるのが楽しい。


それで一昨日だかどういうわけか本を読むのがどうしても嫌でこれは活字離れというより活字はがれといったかんじだなあと思った。

書くという発想がなかった

まずは今朝の夢から。突如上司と各都道府県の特産品を集めることになった。南からくるまでまわるのである。鹿児島か熊本かそのあたりで「ルエノ」という黄色い草があるといいこれは煮ても焼いてもどう料理してもうまいという。たまたま祭りの最中で地元の人が焼きたての「ルエノ」をほうりなげるように寄越した。私は「ルエノ」なんて初めてだが上司は知っているようだった。花だか実の部分を食べると銀杏に似た味がしておいしかった。私は起きたらこの「ルエノ」について調べようと思った。夢だから実在しない可能性があった。しかし私はそこでは夢にまみれていたからおそらくあるだろうと思った。問題は起きた後もおぼえていられるかどうかだった。夢と現実の関係は二台のPCに似ている。PCはネットワークにつなぐとがあとはCDだのの外部メディアがあれば別だがそうじゃなきゃデータのやりとりができない。私は昔実際にそういう状況になったことがあって紙に手書きで写してそれを隣のPCに打ち込んだことがあった。もっと頭の良い人というかPCに明るい人ならやり方があったかもしれないがそれは手書きで済むデータ量だったからそういう人でも「手書きでいいよ」と言うかもしれない。


そういえば昔の職場はMOでデータ管理をしていてMOはフロッピーの親玉みたいなやつである。私が初めてそこに勤めたときにに買ってもらったのはMOの外付けドライブだった。その当時ですら友達に「うちはMOだよ」と言っても通じなかったが私の感覚だとCDよりかは信頼性があった。CDはすぐ消えるとかあとコピーに失敗するとかでしょっちゅう捨てているイメージがある。初めてCDを捨てるときは随分躊躇した。それまでは音楽CDしか持ってなくて捨てるという発想はなかった。たまに傷が付いて聴けなくなっても棚の中には入れたままにしていた。実際何ゴミになるのかわからなかったからである。カセットテープはプラスチックだからプラスチックゴミで捨てればいいと簡単にわかった。カセットは幼い弟とかがテープをびろーっとしてしまうから簡単にゴミになった。CDは外見が損なわれることは滅多になく噂で誰それがCDを割ったみたいなことを聞いたときには「力持ちだな」と思った。その人は素手で鳩を捕まえられ筋肉質でオリンピックみたいな外見だった。しかし性格は悪くえばりんぼだったから私は好きではなかった。彼の家は三階建てで国道が線路と交差する近くにあって国道が立体交差するためにせり上がりちょうどその影にあった。電車に乗ると下り方向だとよく見え見ると彼の家は箱型で屋上があり屋上に行くための梯子がついていて私は「梯子だ」と思った。


彼は中学までいっしょだったが卒業後は特待生で私立へ行くことになりそのことは母から教えてもらったが母からはそのことは絶対に他言しないよう注意された。理由はよくわからなかった。それよりも私が彼を嫌っていても母は彼の母とはそれなりに話をする仲らしくそういうのが奇妙だった。

起きてから「ルエノ」について調べたがとうぜんそんなのはなかった。「うえの」だったかもしれないしそもそも夢で聞いたのは全然違う単語だったかもしれない。上司とはその後名古屋で会い私は上司が運転するワゴン車の後部座席を倒して寝ていて起きたところだった。上司が車を運転するのを見るのは初めてだった。いつも電車でくるからである。上司は今日中に全国をまわると言い私は無茶だと思った。

激流

興味深い記事を読んだ。人のオシッコは時速300キロに達しさらに大谷翔平のそれはゆうに450キロを超えるという。最終的にそれはクシャミの話だったらしいが私はとちゅう「じゃあボールなんて律儀に手で投げずに陰茎からはじき出せばいいんじゃないか」と思った。昨今ナイター中継もめったにやらないわけだから放送倫理など気にする必要もない。それより新聞などで「ついに460キロ到達!」とか見出しが踊ればよほど人目を引き経済効果はあるだろう。つまり人は文字でじゅうぶんなのだ。文字は記号だから何がダメで何がOKかは割合はっきりしているしダメなら別に差し替える作業も映像なんかよりずっと楽だ。私はかつて「テキストベースボール・テキストフットボール」という記事を書いたことがあるくらいスポーツはテキストで十分だと思っているクチなのだ。映像じゃなきゃ我慢できないのはポルノくらいだ。


しかし時速300キロのオシッコでそれを受ける便器やまた陰茎は無事なのかという疑問も湧いた。いつだったか「トリビアの泉」という番組で小便小僧のおしっこで便器を貫通させるという企画があったがあれはものすごく大掛かりで感動をおぼえた。最後レーザー銃で撃たれたように小さな穴でオシッコが貫通した。つまり日常のオシッコではまず便器には傷がつかないのである。それならば便器メーカーはその強度のノウハウを生かして金庫だとか防災シャッターなどを発売したらいかがだろうか。


一方で陰茎のほうが心配だ。私は試しに川の激流の速さを調べると「仮に36km/hだとすると」なんて書かれていてつまりオシッコは川の激流の8から9倍の世界の話なのだ。これは痛い。普通の流れの川ですら陸地を削ったりして形を変えてしまうのだから量の差こそあれ陰茎の中が削り取られないのは何かしらの奇跡が働いていると思われる。いっそ便器メーカーは人工陰茎に始まって各種装具産業ロボット最終的には人工人(クローン)でもこしらえたらどうか。

書いているあいだはお金はかからない

モンテ・クリスト伯を読み終わった。後半に行くにしたがって読む速度が加速した。全7巻だったが最後は1日で読み終わってしまった。つまり今日購入した。休みだったのである。電子書籍で購入するとおそろしく気安く買える。そして場所をとらない。いくら文庫本でも7冊あるとちょっとした山になってしまい妻に目をつけられてしまう。妻からしたらどうして同じ本が7冊もあるのかぎょっとしてしまうかもしれない。転売目的とか思われるかもしれない。妻は私の読んでいる本にはまったくとんちゃくしないと思っていたからこの前読んだ「言ってはいけない」を放っぽいていたらいくらか読んだらしくしかも内容をある程度把握していたので私は驚いた。しかし肝心の私のほうがすでに内容を忘れていたから話はかみ合わなかった。目を細め「要するにアレでしょ? アレみたいな話だっけ?」という態度をした。まるで夫の頭の中は蔵書でぎっしりで検索しようにも情報量が多くで曖昧な結果しか返さずはっきりわからないことを誇りに思っているようだった。


夫婦は昨夜テレビを見ていたら上の方にニュース速報が流れ見るとどこかの政務官が辞任したというニュースだった。一体なんのことなのかわからないので夫が調べてみるといつぞやのニュースで泥みたいなところに視察にきた政務官を下っ端がおぶって案内するときのおぶされた人のことだった。その件で叩かれてすっかりしょげ返っているのかと思ったらパーティーで「私のおかげで長靴屋が儲かった」という旨のことを言ったらしい。私は悪意をもった書き方をしたのであくまで旨であることをご留意いただきたい。同じようなシーンが「モンテ・クリスト伯」にもありモンテ・クリスト島に到着したマクシミリヤンが浅瀬で濡れてしまうからと背中を差し出す水夫を無視しざぶんと腰まで海に浸かるシーンがある。水夫は「やめてください。これじゃ私が主人に怒られてしまう」と悲鳴をあげるのである。マクシミリヤンとしては死ぬ気まんまんなので自分が濡れようが関係ないが水夫の人生は続くのである。


妻は「どうしてこんなことで辞任しなきゃいけないの」と言うので夫は半ばムキになって自分の不注意で余計な公費を使わせておきながら悪びれる様子もなくトークのネタにしちゃうのだからそれなりの制裁もやむなしと説明した。しかしその後夫は自分のよく見るサイトのコメントを見ると「こんなことで」という妻と同類の意見が大半を占め夫は自分の感覚がずれていたことを自覚した。

70%

だいたい日々の生活だと携帯の充電は70%もあれば保つ。日々とは仕事のある日で休みはもっと減る。少し前は本でも読みながらその間に充電していたが今は本も携帯で済ますようになったから充電がないと心許ない。しかしなんでこんな話をしているのか不明だが70%とは仕事もそのくらいでやりなさいよという嗜みのたぐいかもしれない。そんなことを考えた。100%で家を出てしまうとあちらにばかり負担をかけてしまいこちらも悪いと思ってつい無理をしてしまう。でも世の中にはそんなことに頓着しない人も大勢いた。


朝ぼんやり考えていたことを思い出した。何日か前に「自分の頭で考えることの傲慢さ」について書いた。それを拡張して今はとにかく「自分」ばかりが強調される世の中ではないかと思った。自分の意志でとか自分らしさとか成長とか。私は人生の主人公という言葉が嫌いだ。私は成長とは自分もふくめたあらゆることをどこまで相対化できるかだと思っている。自分が主人公だと思っている人はまだまだ子供だ。そういう発想が悪事につかわれる。罪と罰みたいに人殺しもOKということになってしまう。私は本当の罪とは人殺しの是非ではなくその思考の短絡さだと思う。つまり自分を基準にしてしまえば色んなショートカットが使えるようになる。そういうのがスピード重視効率重視の現代にはまるのだろう。

バロワが死んだ

バロワとは私が今読んでいる「モンテ・クリスト伯」の登場人物で老僕である。仕えているのはノワルティエという皇帝派の男で今は年をとって中風になって身動きも言葉もしゃべれない。皇帝とはナポレオンである。ノワルティエの息子は検事で王党派であった。そして検事にはヴァランティーヌという娘がいて娘を嫁にあげようとしている相手はフランツ・ドブレーというがドブレーの父は同じく王党派でかつて決闘でノワルティエに敗れて死んだ。それが婚約の際に明らかになって結婚は反古になった。


それから何日かしてバロワが死んだ。夏の暑い日にレモネードを飲み干したらそこに毒が入っていたのである。炎天下を歩き回ってふらふらになったところに毒をがぶ飲みしたのである。レモネードはもとはノワルティエのところにあったがヴァランティーヌが汗まみれのバロワを気の毒がってレモネードをついであげたのである。バロワが死ぬ間際ヴァランティーヌの父で検事のヴィルフィールは
「オレンジエードにすれば良かった!」
と娘に叱った。


話を整理すると毒はノワルティエを狙っていたが横入りしたバロワが死んでしまった。毒はノワルティエも飲んでいたがノワルティエがなんともないのは普段中風の薬を飲んでいてそれで毒に耐性があったからである。あわれなバロワ! それにしても私はこの小説にかんしては登場人物の名前がすらすら出てくる。「モンテ・クリスト伯」なんせ七冊か八冊もあるからくどくてくどくて嫌でもおぼえてしまうのである。最初のうちはかったるいやり取りの連続だったがクライマックスが近づくと人がぼこぼこ死に出す。私は今六冊目を読んでいる。カドルッスも死んだ。カドルッスは主人公の家の隣に住んでおり登場人物の中で唯一伯爵等に出世しなかったあわれな男である。

海辺のカフカ

「騎士団長殺し」が手元にないから「海辺のカフカ」を再読した - Letter from Kyoto

川添さんが村上春樹海辺のカフカ」について書いているから私もおぼえていることなどをだーっと書きたい気になった。私は川添と同様「海辺のカフカ」以降に発売された小説は読んでいない。「海辺のカフカ」も文庫になってから読んだ。面白さの度合いでいったら「中」といったかんじだ。じゃあ「下」はなに? と訊かれると思い浮かばないから「下」でもいいかもしれない。私の中では「ねじまき鳥クロニクル」が一番で「ノルウェイの森」が二番である。そして「ダンスダンスダンス」がダークホースである。でももう死ぬまで読まないかもしれない。


海辺のカフカ」で印象に残っているのは読者が作者に「高知県のなんとか市には図書館はありませんよ」という指摘に作者が「次の版で直しておきます」と応じたところである。かつて村上春樹はデビュー作の「風の歌を聞け」でネズミという登場人物が車をぶつけたときのシーンについて読者が「ネズミの乗っている○○という車には△△はついていませんよ」という指摘に「あの小説は△△のついた○○のある世界の話だ」と突っぱねていたころと比べ丸くなったという印象を持った。△△のついた○○のある世界という言い回しを私は気に入っていてまた別の読者の中にも同じような人がいて読者とのメールをまとめた本の中にもそれを取り上げる人がいた。しかし村上春樹はつれない態度をとったから△△のついた○○のある世界という言い回しはあとから「しまった」と思ったのかもしれない。嘘は最小限にという不文律があるのかもしれない。


どこで読んだか忘れもしかしたら夢かもしれないが少し前の文芸誌の記事で村上春樹が取り上げられていて村上春樹が北海道のなんとか町を舞台にした小説を書いていてそうしたらそこの町議が作者に「うちの町にはそんな人いませんよ」と抗議してそんなこととはゴミのポイ捨てとかそんなのだったが村上春樹はそれにも応じて謝罪したとどこかの小説家が言っていてがっかりしたと書いていた。いつだったか若い女と不倫記事をすっぱ抜かれた小説家だった。私も確かにがっかりしたがお前が言うなよみたいな気持ちもあった。お前とはがっかりしたと書いた作家である。同業者だからかばえとまでは思わないが同業者は注意してとりあげないとどこか僻みっぽく聞こえてしまうものである。しかしそういうことがあればインターネットでも話題になるだろうからやはり私は夢でも見ていたのかもしれない。