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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

不思議な体験

先日芥川賞をとった山下澄人という小説家がいてその人がこの前Twitterでルソーだか誰だか外国のそういう系の人が回顧録かなんかで子供の時に一歳になったばかりの弟が焚き火に向かって日に飛び込むのを見たがそれを長いこと本当の出来事と信じていたみたいな話を紹介していて山下澄人保坂和志はそういう人智とか物理とかを超えた話をするのが好きでかといってオカルトめいた風に話をもっていくのではなくあくまで日常的なこととして「そういうこともあるんだよ」と話す。例えば山下澄人の「緑の猿」という小説には中に折り込みで保坂和志との対談が入っているがその中で子供の頃なんとか球場に行くと外野席に座っていてもなんとかというバッターのストライクゾーンがボール一個分の精度でわかったみたいな話を山下がして保坂が「あるある」みたいな特に驚くでもない反応をしていた。私はもちろん山下澄人が好きだから小説を読みその後そこに出ていた保坂和志の名を知って徐々にハマっていくのだがそうなると私にもそういう「人智を超えた」記憶がほしくなる。それは些細なことというか解釈とか態度の問題でリアルな人なら「それはそのバッターに打ってほしいと願う心理がそうさせた」みたいな解釈をする。思い込みみたいな。そういえばこの手の話を地に落とすときかなりの確率で「心理的」という言い回しが登場する。心理とか気持ちというのは日常のその他のぶぶんを担当していることがよくわかる。つまり説明可能な箇所は論理とか客観とかそういうのが担当し説明不可能かそれに近い部分はなんでも気持ちの問題になる。というか「気持ち」というキーワードを用いて論理の側にもってくる。一種の翻訳機である。よくお化けが出てくる話で最初は「疲れ」とか「気のせい」とかいうが絶対にそんなわけないのに周りの人々は奇妙なくらいそれに納得する。そういえば数日前に子供と怖い話を読んでいたらおじいちゃんが死んで自分と父親が通夜のときに棺桶の脇に布団を敷いて寝ていたら夜の間中枕元に足音が聞こえてそれは最初父がトイレに立ったのかと思って翌朝訊いたら父も全く同じことを思ったといいそこがぞっとするポイントなのだろうが私の子供は
「ステキじゃん」
と言った。これも解釈の問題だけど死体の脇で寝ていたら足音がしてそれを最初に「おじいちゃんだ」と思わないのはおかしい。ひょっとしたらこの父子のほうこそオバケかなにかでそこがぞっとするポイントなのかもしれない。


それで私は最近自分の人生を振り返って不思議だったことをいくつか思い出したが今日書くにあたってほとんど忘れてしまった。おぼえていることを以下に書く。

・私は長男だがずっと兄がいると思っていてしかもその兄は両親がパチンコに興じているときに真夏の車の中に放置され熱射病で死んだ。それを機に両親はパチンコをやめた。

・通っていた幼稚園で馬を飼うことになりその馬の名は「本人」となった。しかしそれは「ポニー」という馬種を聞き違えただけで担任は両親によく教えるよう連絡帳で伝えた。最近になって当時の連絡帳が出てきて見たがそんな記述は一切なくあるのは私が病院にいくために早退する旨の連絡ばかりだった。当時は体が弱かったのである。当然両親は本人のことなどおぼえていない。

・小1のころに近所に雑木林があって家で今日の探検コースを決めるにあたり雑木林の地図に適当に線を引いたら実際にそこには小道があった。

・友達が人魂に追いかけられた。