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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

よき仲間

朝走っていたら私のマラソンコースには広めのどぶ川がありそこは広い上に深いから子供が落ちたら大変だからと丈夫なフェンスが張られている。勾配のある土地だから立つ場所によってはどぶはかなり深くて大人でも骨折しそうである。そこに頑強なフェンスが張られている。フェンスの網目には注意を促す看板が掲示されているが合わせて極めて想像力の欠如した人が書いたポエミーな文字の羅列いわゆる標語というものが書かれた看板もあり私は普段そんなものを熱心には読まなかったからどんなものか気づかなかったが今日たまたま目に入って読んだら
「清流で 友と語らう よき仲間」
というのがあってこのどぶ川が清流かどうかは置いといてこの短い言葉の中に友だ仲間だとプレバトの俳句のオバさんだったら卒倒しそうな内容である。プレバトというテレビ番組に登場するオバさんとは俳句の専門家でしょっちゅう「文字の節約」と口をすっぱくして言う人で私はそういう考えにあまり賛同できないがいくらなんでも友と仲間が一緒に出てくるのはひどすぎると思った。しかし私はこういう文章を吟味するのも好きなのでこれは一体どういう状況なのか立ち止まって考えると結局は友と語らっているのは仲間であるからこの叙情主体は本人は語らってはおらず口をつぐみ傍観しているのみである。もしかしたら怒っているのかもしれない。さらに「よき仲間」は叙情主体にとっての良い仲間ととれるが同時に客観的な良い仲間、人間的に優れた「よき」かもしれず仲間でもなんでもないのかもしれない。「仲間」も人類みな兄弟的な極めて希薄なつながりをイメージして使われたのかもしれない。そう考えると叙情主体は完全に孤立した存在でありしかもおしゃべりをしている友達を眺めているのだからその状況を良しとしていないのだろう。仲のよい人とおしゃべりできればどぶ川のそばにいたって清流の傍らにいるかのようだねと皮肉のひとつでも言いたいのかもしれない。