意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

モノマネ

とんねるずのモノマネの番組を見ていたら出る人出る人みんな似てないなあと思ってじゃあ元の声はどうなんだと思い出そうとしてもうまくいかなくてなんでだろーと思ったら元の人がそもそも誰なのか知らないということもあった それでも私にも熱心にテレビを見ていた時期があったようで「夜もヒッパレの......」とか出てくるとよくかんじが伝わってきた サーカスとかマルシアとか あの番組もそれぞれで活躍する俳優さんたちに無理に下手くそな歌を歌わせて無理やり「上手い!」とか褒め合う気持ち悪い番組だった 私はそういえばそのころはドラムを熱心にやっていてTOKIOの松岡のプレイにつのだ☆ひろ
「まだまだだな」
と評する場面なんかはよくおぼえている つのだ☆ひろはテレビだとにこやかだがドラムマガジンだとプロ志望の人のプレイをボロクソに言ったりレッドツェッペリンの幻の音源を持っていることを自慢してきたりとだいぶ性格が悪く毎年ドラムスクールを開講していたが絶対にこんなやつに金を払うもんかと思っていた しかし叩いているフォームは本当にきれいだったしつのだ☆ひろモデルのスティックも音が良かったから何本も持っていた だけれども野球やテニスをやっているんじゃないんだから道具はともかくフォームがきれいとかそんなのは演奏そのものから見ればオマケだったが私は最後までそれに気づかなかった


とんねるずのモノマネはモノマネよりもあの長澤まさみを真似している女の人が急いでカツラを外すところがなんとなく可愛らしくて良かったら

うんこ味のカレー

小学生のころから「カレー味のうんことうんこ味のカレーならばどちらか」という問題があって頭を悩ませたが何年か前に「食べるならうんこ味のカレーだな」と結論にいたり考える度にその判断は強固なものになっている しかし巷では「カレー味のうんこ」を選ぶ人が多いようにかんじるがいくらカレー味だからといって人(またはナニカ)の肛門から出たうんこを食べたいなんて思わない しかしはて動物や昆虫ならば食べられるかもしれぬ 何かの着色料は虫のうんこなんて話を聞いたことがある そもそも「カレー味のうんこ」と百回くらい言っているが何のうんこなのか誰も教えてくれなかったし自身も深く考えなかった これからは「どっち?」と訊かれたら「うんこによる」と答えようと思う


しかし人のうんこだと条件づけするならばうんこ味のほうにしようと思う 今「あなたの知らない脳」という本を読んでいるがこの本を読むとやはりうんこではなくうんこ味を食べることのほうが自然だということが納得できる 始終うんこの話をしている本ではないが


崩れる風景

叔父が死んだり会社の後輩が辞めると言い出したりばたばたした年の瀬となった いくつかの予定をキャンセルし懸念事項が増えた しかし時は流れるのだろう もう私に2時間くらい話し続ける人はいなくなってしまった 友達となら2時間くらいどうってことないがそのときはほとんど私が話の主導権を握る 私は私が主人公の話しかしたくなく唯一の例外が叔父だった  というより私は帰るタイミングをうかがい露骨にあくびをしたって叔父はへっちゃらに変な客の話だのをしてきた 営業というのはタフなんだなあと感心したがここ何日か話でむしろそんなに話せたのは私くらいなのではないかという気がした だからと言ってなんの感慨もないのだが

好きというのは足枷だ

会社の後輩が会社を辞めると私に告げもう次の会社は決まったというし好きなことがしたいというからできるというから私はむしろ祝福したい気持ちになった 貿易会社に勤めるらしい
「海の近く?」
というと
「海の近くです」
答えた 私の中で貿易といえばそれくらいのイメージしかなかった 私が海なし県に住んでいるというのもあるだろう あとものすごい金持ちのイメージでしかし金持ちは「貿易会社の社長」だった気もする 社長はもちろん貧乏なのもいるだろうが大抵は金持ちだ 車で言うとクラウンとかベンツみたいなものだ 聞くところによると安いクラウンというのもあるらしいがそれでも周りは「さすがはクラウン」みたいな目で見てくれるらしい 裸の王様という童話があるがあれの現代版をつくるなら王様はクラウンに乗って登場するのだろう 純粋な子供が
「でもあの車は軽自動車だよ?」
とか言って親に殴られるのだ クラウンは軽ではない


私は後輩のふだんの仕事ぶりを見て正直貿易会社ではどうなのだろうかと思うところもあったが好きなら一生懸命やるのかもしれない そうすると逆に言えば好きじゃない現在の仕事は低パフォーマンスでやっていたことになるがそんな器用なものなのだろうか かつて私は好きなことを仕事にできるならしたほうがいいみたいな記事を書いたがそれは結局は好きでも嫌いでも同じみたいな内容だったがそもそも私自身好きな仕事なんてなかったしもっと言えば好きなことがない 好きなことがある人からしたら信じられない人生かもしれないが強いて言えば昨夜実家で食べた湯豆腐が幸せだった 危篤の叔父を囲みながら周りの人いわく私はハマるとものすごいらしい そんな自覚はまったくなく面白いと思ってもすぐに飽きてしまって困っている でも私のことなんて私より周りの人のほうがよく知っているから私は自分の好きなものが見えないのだろう あるいは見ないのだろう


そういう私からするとやはり好きというのはエクセルで言う「フィルター」のように見えてしまう 好きもいいけれど仕事は他人のやりたがらないことをするとポイントが高い 誰でもできるがなるたけやらずに済まそうとすることが良い しかしポイントとはお金のことではなく 居心地とかそんなのだ 物わかりの悪い子だったからもっとストレートにそう言えば良かったかもしれないが私だってそんなこと今考えたところだ 確かにえり好みする風が見え私はそれに違和をおぼえていた 

スズキのCM

スズキの車のCMはTOKIOのやつとももクロのやつがありこれらのグループはどちらも5人組である 宣伝を担当する車は後者が軽自動車で前者が非軽自動車でありそうするとももクロの5人組は2台に分乗する必要がありそうなると後ろの車両にひとりだけ後部座席になってしまいそうなるのはいつもグリーンだと思うのだが違うのかもしれない それはそれでミジメというかアンバランスだが一方TOKIOは5人乗りの車で5人は一台におさまるのだがぎゅうぎゅう詰めでありこんな絵面が視聴者の購買意欲をそそるのか大変疑問だが私は分断されたももクロと圧着されたTOKIOのCMを立て続けに見るとスズキという会社はとても罪作りな組織だと思いながらどこか幸せをかんじてしまうのである

なにを見ている?

みんなは町のどこを見てるの?

町中で何を見ているのか人の見ているものを知るのは楽しかった 私はよく店の中などで別行動をしている家族や知人を探すときはこんなにも人の顔や体が並ぶ中で知っているものを判別できるのは何故だろうと思ったりまた探していないときは毎日同じような風景を見ているのに記憶に残るパターンとそうでないパターンがあるのは何故だろうとか考えている つまり風景そのものを見ていないのだ あと更地になったところに元々何があったのかがわからなくなるのはなんでだろう 今日父と母と病院に向かう途中で父が更地を見て
「あそこは何があった?」
とつぶやいて私は比較的すらすらと「あそこは寿司屋だった」などと言えた 私たちは叔父の見舞いに行く途中だった 叔父は危篤といってもいい状態だった 私は病院の中で迷った 受付の態度が悪い 病室は個室でトイレがあってトイレのドアは2枚あった 私たちは比較的のんきな見舞い客だった 母が意識が混沌とする叔父に
「私たちと話したくないんですかー」
と声をかけていた 私も
「おーい」
なんて言っていた 私たちは別に不真面目なのではなく私たちには日常があったのである 日常は流れであり立ち止まっていられないのである という解釈が正しいのかはわからない しかしいかにも悲壮感を漂わすなんてそんなことができるはずがない 叔母は叔父にずっと付き添っていなければならないがそれでもなんとか飼い猫と戯れる時間はつくっていた 2人いる息子は2人とも仕事に行っている 休憩コーナーにはカレーが自動販売機で売っていてご飯とカレーが別々だった 受付の態度が悪く帰りに見舞いの人が首から下げる札を渡そうとするとひったくるように取られた

結論からいえば

たまに読んでいて「結論からいえば」という言い回しにあたることがあり私はそのたびに
(結論からいわないパターンはどんなだろう)
と思ってしまう 私自身はあまりそういう書き方はあまりしないしまた文章の書き方は千差万別(今日も「一段上の文章術」というのを目にして糞食らえと思った)なのでもしかしたら「結論からいえば」を使うときはあらかじめ結論から言わないパターンがあって手を入れる段階で結論が先に来るのかもしれない


これは私の癖でいつも(じゃないほうってどんなだろう)と考えてしまう 人とのおしゃべりでも間を持たせるためにこういう発想を披露することがある 私は親しい間柄でもそうでなくても変な間ができるのを極端におそれる傾向がありそういう不安から逃れるためにそういう思考をするようになったと思われる 大人になって「別にあえて喋らなくてもいいんじゃないか」みたいな人に出会ってひどく驚いた それまではみんながみんな自分のエピソードを披露したいんだと思っていて思えばそのことで傷ついた人もいたのではないかと思う