意味をあたえる

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音楽室(5)

芳賀くんとは2年で同じクラスになり、進級してわずか1週間でそのことをタヤマ先生に話してしまった。

「新しいクラスにいい人いた?」

という問いに、まず最初に彼の名前が浮かんだ。単に目に留まっただけの存在だから「特にいない」と答えればよかったが、しらけるような気がして「ちょっと気になる」なんて言ってしまう。先生は1オクターブ高い声で舞い上がり、身を乗り出して芳賀くんの外見的特徴や、部活などを聞きまくってくる。遠目に見ているだけの存在なのに、わかるわけがない。答えられずにいると、恥ずかしがって喋らないんだと勘違いをし、ますますはしゃぎ出す。その後授業で芳賀くんの顔を確認すると「あれは中学生にモテる顔だね。やばい」とハイテンションになり、女友達のように「彼女がいないといいね」と励ましてくる。愛華はそんな先生のテンションについていけなかったが、からかわれるのは嫌ではなかった。クラスメートに言いふらされる心配もないから、言い回しやニュアンスに気を配る必要もない。

「わたしが担任なら、すぐに隣同士の席にしてあげられるのになあ」

口元に笑みを浮かべながら人差し指を顎にあて、残念そうに先生はつぶやいた。

タヤマ先生はどのクラスの担任でもないが、2年生全クラスの音楽を受け持っている。

授業は第二音楽室で行う。その時になって初めて知ったが、赤い絨毯は土足禁止で、みんな当たり前のように上履きを下駄箱に入れていた。もし自分が一番乗りだったら、クラス中の非難の的になっただろう。靴下で触れる絨毯はやわらかさよりも、ざらざらした感触が際立った。長い期間の使用で、表面の柔らかい部分は全て擦り取られてしまったに違いない。きめの間に汚れが詰まっている気がして、足の裏をつけるのに抵抗を覚える。つま先立ちで歩きながら、タヤマ先生がスリッパを履いたままの理由を理解する。

そんな先生も、始業のベルが鳴ると、ちゃっかりスリッパを脱いで入ってきた。黒いストッキングのかかとをぺったりと床につけ、なんとなく無防備な感じがする。きっとあのストッキングは安物だ。それなのにすました顔をしているのが滑稽で、吹き出しそうになる。「学校の先生みたいな顔をしてる」とからかってやりたくなる。

ある程度予想はしていたが、授業の雰囲気は放課後のそれとはかなり違っていた。30人以上の人間がひしめくと、他の教室と大した差もなくなってしまう。窓際の、昨日先生が座っていた席には坊主頭の野球部が座り、教科書をメガホンみたいに丸めている。その場所で昨日、先生がクッキーを口にいれたまま吹き出し、かなりの食べカスが飛んだなんて夢にも思わないだろう。



タヤマ先生の様子も全然違っていた。授業を受けてみてわかったが、先生は生徒の人気を集めるタイプの教師ではない。新学年が始まって最初の授業は、顔合わせということもあって、比較的緩く行われることが多い。生徒一人一人に自己紹介をさせ、その後で自分の家族構成や趣味を延々と語って終業のチャイムまで持ち込む教師も多い。授業もガイダンス的に触れる程度で、生徒の方も教科書やノートが全部揃っていなかったりする。

だがタヤマ先生の場合は、初回授業定番の"黒板に名前を大きく書く"を行うこともなく(先生はチョークが嫌いだった)

「音楽担当のタヤマです」

と短く挨拶を済ませ、何をするのかと思ったら全員を席から立たせて校歌を歌わせた。ピアノの前に座って蓋を開け鍵盤に指を置くという流れを必要最低限の動きで行い、にこりともしない。

校歌は一年の時から何度も歌わされるので、歌詞は完璧に頭に入っていて、どこで盛り上げるのかもよくわかっている。が、歌い終わると先生は「もう一度」と言って、再び前奏を弾きはじめた。何を注意されたわけでもないが、先生が今の歌に満足していないのは雰囲気からして明らかで、2回目は最初にあっただらけた空気は完全に消え、愛華も声を張った。

歌が終わると先生は立ち上がって、生徒たちの前にきて

「全然声が出てない」

とだけ言った。大きくはないが、よく通る声だ。音楽室内の隅々まで届くように、声量は計算しつくされているのかもしれない。先生は手拍子を取り始め、今度は伴奏なしで歌うことになった。1番の途中からその手拍子もなくなり、先生は生徒たちの間を通り抜けて行った。1人ずつ歌声を確かめようと言うのだ。ある男子生徒の前で立ち止まり、しばらく耳を傾けると、その生徒を教壇の前まで連れ出した。

3番が終わるまでに5人ほどピックアップし、再び手拍子が始まり1番から歌い出す。5人はこちらを向いて唄わなければならない。見せしめであることは明らかだった。まだ半分ほどの生徒しかチェックは済んでおらず、愛華のところまでこないうちに授業が終わることは、残り時間からしてもあり得ない。

愛華は必死で歌詞を辿った。放課後タヤマ先生をからかってやろうと、無邪気に思っていた頃が懐かしい。声が震えてきている気がするが、全員の歌声に紛れてよくわからない。前に出された生徒は後から説教でもされるのだろうか。そうでなくても今こうして衆目にさらされているだけで、十分屈辱だ。左端の女の子は真っ赤な顔をして、口を目一杯開いている。

いよいよタヤマ先生は愛華の列に来た。前から順番に生徒の歌声をチェックする。問題がなければ素通りするが、気になるとその場にとどまって耳を傾ける。今ふたつ前の席の子が、前へ出るよう指示された。愛華よりもずっと頭の良さそうな子だ。あの子がダメなら、自分なんて絶望的だ。

前の席の横を通りぬけて、いよいよ愛華の番がくる。斜め前で立ち止まり、目をつぶって愛華の声を聞き分けようとしている。素通りしなかった時点で、状況は良くない。愛華はこれまで以上の声を出そうとするが、喉にばかり力が入って、ヒステリックになるだけだ。お腹から声を出すということができないのだ。

愛華は前を向いたまま、視線は前の子の後頭部に釘付けだった。髪は黒いゴムでひとつに纏められている。もしかしたらそれはゴムではなく、それもその子の髪の一部なのかもしれない。怖くて先生の方なんて見られない。が、それでも視界の端で、タヤマ先生が目を開き、こちらに顔を向けたことはわかった。言われる。

だが、タヤマ先生は再び前を向き、そのまま歩き出した。目だけ横に動かすと、先生の視線は次の生徒に向いている。助かった、と思った瞬間肩の力が抜け、背中に相当の汗をかいていることに気づいた。その汗が背中の熱を一気に奪い、まるで体育の授業の後のような清々しさを覚える。

そう愛華が安堵した瞬間、手に何かが当たった。慌てて手を引っ込める。横を通り抜ける時に、先生の手がぶつかったのだ。愛華はすぐに、それが故意にぶつけてきたのだと理解した。先生はわざと立ち止まり、愛華のことをからかったのだ。この数秒間の極限状態は、一体何だったのだろう。愛華はその場で振り返り、先生の背中に言い訳や負け惜しみをぶちまけたかったが、ただ恥ずかしさに耐えながら歌い続けるしかなかった。

愛華ちゃんの顔、マジ傑作だったわ」

放課後、愛華が音楽室の戸を引くと、タヤマ先生は駆け寄ってきて満面の笑みでそう言った。本当顔真っ赤だった、声も震えてた、と次々に言葉を浴びせてくる。そこら中をうろうろしながら、愛華の頭を撫でたり、手を触ったりした。スリッパのぺたぺた音が鬱陶しい。調子に乗って「可愛かった」とまで言ってきたので、不機嫌そうにしたら、ようやく何も言わなくなった。

「わたしが愛華ちゃんに意地悪するわけないじゃん」

声を弾ませながら、タヤマ先生は言い、紅茶を入れてくれた。先生の言う意地悪は、愛華の前で立ち止まったことではなく、教壇の前に出すことを指している。年明けの頃から、先生は音楽室に電気ケトルを持ち込み、2人で紅茶を飲むのが恒例となっていた。お詫びの印なのか、砂糖も先生が袋の封を切って入れてくれた。愛華は半分しか入れないのに、先生は自分の分と勘違いして勢いよく全部投入した。愛華は、溶けきれないで底に残った砂糖を眺めながら、どうして自分が先生にとって特別なのかと考えた。



次の授業では、一時間丸々歌わされるということはなかったが、それでも他の教科よりも圧倒的に緊張感があった。おそらく最初に校歌を歌わせたのは、生徒の歌声を聞くためではなく、自分のやり方を生徒に示すためだったのだ。タヤマ先生は基本的に敬語で、背筋もぴんと伸びている。冗談も言わないし、声を出して笑ったりもしない。当たり前だがお菓子も出てこない。生徒に質問をする時も、完全にランダムで選ぶ。他の教師なら、例えば今日は10日だから出席番号10番、と最初の生徒を決め、そこから前後に答えさせる生徒を移動する。そういう規則性を生徒たちは素早く読み、自分が当てられる可能性を探って準備を行う。しかしタヤマ先生の場合、そういったことは一切ない。名前を呼ぶ時に、生徒の顔すら見ないので、表情でどの辺りを狙っているのかを予想するのも不可能だ。男女を交互にするといった配慮もなく、1回の授業で3回名前を呼ばれた生徒もいる。一度当てられたからと言って、安心はできない。

そんな中でもやはり愛華は特別だった。夏休みまでで呼ばれたのは1度だけで、しかも教科書の一部分を読ませるという、負担の少ない仕事だった。10回以上指名されている生徒もいたから、1度だけというのは不自然だ。だが、タヤマ先生のやり方では偏りがあるのは当然と皆思っているのか、愛華の発言が少ないことを指摘する者はいなかった。他の生徒は、リコーダーで延々とソロを吹かされたり、バロック音楽についてのレポートを発表させられたりしている中で、おそらく愛華だけがリラックスした気持ちで授業に臨んでいた。

音楽室(4)

「その芝生田って子はね、この前一家揃って夜逃げしちゃって行方不明なの。そんで、どうしようかって話。まあ退学にするんだけど」

先生がぽつりと言った。てっきり書類を綴じるのに夢中になっていると思ったのに。愛華は一気に血の気が引いて、思わずその場にしゃがみ込みそうになる。何か咎められる前に「すみません」と謝る。

「そんなの大したことじゃないよ。3年生は噂でだいたい知ってるし」

愛華の手の中の書類を取りながら、先生は言う。1人の生徒の退学よりも、書類がきちんとホチキス留めされる方が余程重要なことのような言い草だ。予想とは完全に違う先生の言動に、愛華はあっけにとられてしまった。

作業が終わると、タヤマ先生は綴じ終わった資料を袋に詰め、お礼、と言ってクッキーを2枚くれた。何の変哲もない、個包装された市販のものだ。家でも時々お母さんが買ってきたものをテレビを観ながら食べるが、学校では見るのは初めてだ。「また来てね」と先生が出口のところまで送ってくれて、愛華は音楽室を後にした。

笑顔で言った、タヤマ先生の「また」はどうせ社交辞令に決まっている。そう思ってるくせに、愛華は帰り道、再び先生に会いに行くことを考えていた。気がつくと学校脇の垣根を通り過ぎていて、振り返るとソフト部が後片付けをしていた。頭がぼんやりしていて、そういえば下駄箱で靴に履き替えた記憶がなかった。鞄に手を突っ込んで、クッキーが入っていることを確認し、思わず笑ってしまった。辺りはもう薄暗くなってきている。家に帰ったら「先生の手伝いをしてた」と遅くなった理由を話そう。それは決して嘘ではないのに、どこか背徳感のある言い回しに思えた。



別に向こうからしたら、都合が悪ければ断ればいい話なので、それならこっちが行きたい日に音楽室を訪ねればいい話だ。そうは思っても、翌日、翌々日はなんだかがっついているみたいでみっともなくて、結局思い立ったのは週が明けてからだった。教室から誰もいなくなるまでノートを開き、宿題をするふりをして時間を潰す。3階に上がる階段はこの前とは違うところを選び、3年生とは顔を合わせないコースを選んだ。急ぐ必要もないのに階段を駆け上がってしまい、無意味に息を切らしてしまう。運動不足だな、なんて思いながらも、この苦しさがちっとも嫌じゃない。ところが、いざ音楽室のドアの前に立つと、中から合唱する声が聞こえた。愛華は反射的に階段のところまで下がって、どういうことなのか状況を整理してみた。音楽部だろうか。考えてみたら音楽室は2つしかないのだから、放課後部活で使うのは当然だ。タヤマ先生はもしかしたら音楽部の顧問で、部活もせずにふらふらしている愛華を部に入れたくてこの前は声をかけてきたのかもしれない。タヤマ先生と一緒に毎日合唱三昧。それも悪くない気がする。そう思うくせに、何故か気持ちは沈み、ドアを開ける勇気なんて起きず、愛華は再び階段を下った。

家へ帰ってベッドに寝そべると、自分の不甲斐ない行動を嘆き、明日は勇気を出してドアを開けてやろうという気持ちになる。以前聞いた時音楽部の子は、確かにタヤマなんて教師は知らないと言った。それならもう一度行って、きちんと確かめるべきだ。

次の日、再びドアの前まで行ってみると、今度は物音ひとつしなかった。震える手を抑えながらノックをしてみると、女の人の返事が聞こえた。タヤマ先生の声のような気がするし、違う人のものにも聞こえる。もし違ったら「タヤマ先生はいらっしゃいますか?」と尋ねればいい。確かに先週ここで会ったのだから、不自然な質問じゃないはずだ。

ゆっくりとドアを引いてみると、果たしてタヤマ先生がこちらを見ていた。窓際の席に座り、手にはペンを持っている。「あら、愛華ちゃん」

先週別れ際に名前を聞かれて、名乗ったら「じゃあ愛華ちゃんて呼ぶね」と言われた。ちゃん付けで呼ぶ先生なんて、小学校の、それも低学年以来だからものすごい違和感を覚えた。でも、今そう呼ばれると、自分は忘れられてなかった、と心底安堵した。思わず小走りになって、先生の元へ近づき犬みたいな自分、と心のなかで失笑してしまう。



「月、水、金。あとたまに土曜日は音楽部が練習に使うの。それ以外は私が。まあ勝手に使っちゃってんだけど」

前日の不在について、そう教えてくれた。一応音楽の教師だから、ピアノの練習もしなきゃだしね、と机の上で鍵盤を叩くジェスチャーをする。その割に、この前もそうだったけど、まだピアノを弾く姿は見たことない。愛華の怪訝な表情に気づいたのか

「わたし職員室あんまし好きじゃないんだよね、人いっぱいいるし、煙草臭いし」

と照れ臭そうに言う。職員室が好きじゃない、とはっきり口にする教師なんて初めてだ。つくづく不思議な人だと愛華は思うが、もちろんそんなことは口に出せない。不思議な人、という形容が場合によっては失礼になるからだ。じゃあどんな風に言ってあげたら喜ぶだろう。そんなことを考えながら突っ立ってると、やがて先生は「座ったら」と隣の席を顎で指した。

愛華が椅子に深く腰掛けると、タヤマ先生は自分の机を愛華のものにくっつけ、横に置いたバッグから飴とチョコレートの袋を出してきた。それを逆さまにして、愛華の前に全部あける。遠慮する隙を与えない。これじゃまるでお菓子目当てでここへ来てるみたいだ。

仕方なく、愛華は飴をひとつ取った。レモン味の、のど飴だった。

「やっぱり、音楽の先生だから、のど飴なんですか?」

なんとか自分から話をしたくて愛華が包のラベルを指さすと、先生は顔を声を裏返しながら愉快そうに笑った。

「面白いこと言うんだね。これはね、味が好きなだけ。わたしは歌わないよ」

音楽教師だということを考えて聞いたのに、そんなに間抜けな質問だったのだろうか。愛華は慌てて包を破いて、飴を口の中に放り込んだ。

話を聞いてみるとタヤマ先生は、音楽部とも吹奏楽部とも全く関係のない人間で、じゃあ何部の顧問なのかと聞いてみると、園芸部の副顧問とのことだった。土いじりをするイメージなんて微塵も感じないので問い返すと、案の定活動には一度しか出たことがないと言う。

「わたし部活とか好きじゃないから」

その言葉に親近感を覚え、愛華はソフト部に入部してから幽霊部員になるまでのいきさつを、先生に打ち明けることにした。「わたしも部活とか苦手なんですよね」とさらりと言うつもりが、一度話を始めると止まらなくなり、本当は吹奏楽部が良かったことや、ユミちゃんなんて初対面から気に食わない女だと思っていたことまで、もれなく喋ってしまった。こんなにも長い時間、自分の身の上を他人に話すことなんて初めてだ。そのせいなのか、最後の方はしゃっくりが出て、止まらなくなってしまった。

愛華は話をしている間、先生が退屈してるんじゃないかと気になって、途中何度も顔色を確認した。先生は途中から頬杖をついて話を聞いていた。余計な口を挟まずに目をこちらに向け、口元に微笑みを浮かべている。とりあえず興味を持って聞いてくれているように感じた。だけど眼鏡の向こうにある、くっきりとした二重の目をずっと見ていると、自分の中の怯えまで見透かされているような気になった。

話が終わるとタヤマ先生は、水筒を出して愛華に紅茶を勧めてくれた。すっかり小さくなっていた口の中の飴が、流し込んだ紅茶によって一気に胃の中まで落ちていく。

愛華ちゃんもそういう集団行動できない人だから、それは仕方ないよ」

先生の感想はただそれだけだった。それなのに愛華は自分の言いたいことが、十分に伝わったような気がした。

それから愛華は、タヤマ先生のいる放課後には、必ず音楽室を訪れるようになった。

音楽室(3)

後から友達に聞くと、それは2年の音楽を担当しているタヤマ先生だと教えてくれた。なんとなくひと言くらいはお礼を言った方がいいかと思ったが、わざわざ職員室まで出向く気にはなれない。話しているところを誰かに見られて、何を話していたのか聞かれるのも嫌だ。

他のクラスメートにもそれとなくタヤマ先生のことを聞いてみたが、音楽教師だという以上の情報は得られなかった。音楽の教師であるなら、と吹奏楽部か音楽部の友達に当たってみるが、皆知らないと言う。

まるで幽霊を相手にしているみたいだが、朝礼の時などは壁沿いに立っているし、渡り廊下ですれ違ったこともある。その時は友達と一緒だったから、声をかけることはできなかった。

ようやくチャンスが巡ってきたのは、愛華がいつもより遅い時間に教室を出た、ある放課後のことだった。日が短くなった11月の夕暮れだった。下駄箱に向かう階段を降りる途中、下からすたすたという、特徴のある足音が上がってきた。それは、来客用の緑のスリッパの音で、確かナプキンをもらった時も、タヤマ先生はそれを履いていた。手すりの隙間からのぞくと、間違いない、背中にかかった髪が、大きめのお尻とリンクして揺れている。他に人はいない。愛華はその場で立ち止まって息を飲み、タヤマ先生が上がってくるのを待った。だが、先生がすぐ下の踊り場まできて、いよいよ顔を真正面から捉えた時、怖気づいてしまった。どう声をかけるのかを、全く考えていなかったのだ。

「この前はお世話様でした!」

と深々と頭を下げればいいのだろうか。いきなりそんなことをしたら相手もびっくりするだろう。それより相手は自分のことを覚えているのだろうか。きっと忘れられている。それならクラス番号名前を順番に言ってから、用件に入るべきか。これもなんだか回りくどい。愛華はとっさに話す内容を考えるのが苦手だった。タヤマ先生は比較的ゆっくりとあがってきたが、確実に近づいてくる。手には白い紙袋を下げている。もしかしたら忙しいのかもしれない。そう思うと、このまま話しかけないのが正しい判断のような気がしてきた。この先も何度もすれちがうのだから、何も今無理して声をかける必要はない。

立ち止まっているのは不自然なので、軽く会釈をしながら階段を降りていく。すれ違う瞬間に、香水の匂いがして「やっぱ話しかければ良かった」と後悔した。

だが、愛華が踊り場に右足をつきかけた瞬間「ちょっと」と背中に声をかけられた。振り返ると上からタヤマ先生が、こちらを見下ろしている。さっきとは逆の立ち位置だ。愛華は小動物のみたいに周りを見回し、その声が別の誰かに向けられた可能性を探ってみる。呼ばれたのは愛華に間違いなかった。挨拶がちゃんとできてなかったのか、それとも態度が悪いのか。階段の頂上に立つタヤマ先生の表情を伺いながら、短時間で言い訳を考える。まだ何も言われていないのに。

「まさかまた、ナプキン忘れたんじゃないよね?」

冗談で聞いてきたということは、口調でわかった。メガネの奥の目が、小馬鹿にしたように笑っている。愛華は顔に血液が集まってきたのがわかった。それを悟られたくないから、目線を外して階段の手すりを見る。手すりの錆びた根元には随分古くからありそうなホコリがたまっていた。相手の方から声をかけてくるという予想外の展開に、どう対応していいのかわからない。タヤマ先生は何もせずに、愛華の反応を待っている。何か喋らなければ、と思うほど言葉が見つからず、結局へらへらとした曖昧な笑顔を向けることしかできない。

「これから部活?」

「部活は、お休みしようかと思って。ちょっと風邪気味なんです」

先生の問いかけで、どうにかコミュニケーションが成立する。部活のことを聞かれたとき用の、型通りの受け答えだ。なんだか他人に無理やり喋らされてるみたいで味気ない。半ば無意識に、咳き込む演技まで付け加えようとしてあわててやめる。

タヤマ先生は足をクロスさせ、右手の人差し指を顎にあてながら何かを考えていた。下を向いたせいで二重顎になり、指のあたったところだけ肌がへこんでいる。見るからに柔らかそうだ。

「ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」

こちらの体調悪いアピールは完全無視なのか、それともはなから嘘と見破っているのか。タヤマ先生は返事を確かめることもなく、愛華を3階の第二音楽室へ連れていった。



最上階である3階は、3年生のエリアで、愛華にとっては全く縁のない空間だった。階段を上っていくつもの教室の前を通り、一番奥が音楽室だった。愛華はすれ違う上級生と目が合うのが嫌で、タヤマ先生の背中から視線から決して目を離さないようにしながら、後をついていった。

全てが見慣れない光景だった。薄暗い入り口には下駄箱が置かれ、てっきり土足禁止なのかと思ったが、先生はスリッパを脱ぐことなく、そのままずんずん進んでいく。愛華は上履きを脱ぐべきか迷ったが、結局脱がずに中へ入った。

まず目が奪われたのは、床全体が赤い絨毯になっていることだった。足を踏み入れると同時に自分の靴音が消え、同時に埃っぽいにおいが鼻についた。他にこんな教室はない。第一音楽室はワックスがぴかぴかの板張りで、いかにも近代学級という感じだが、こちらは大正時代みたいな雰囲気だ。

天井は高く、金属の太い配管がむき出しになっている。教壇の木材も黒ずんでいて高く、準備室へ通じるクリーム色のドアも傷だらけだった。黒板に書かれている黄色い五線譜も、とこどどころが消えている。壁には黄ばんだ貼り紙で「火の元注意」なんて書いてあり、床には消火器が置いてある。音楽室なのに、火なんか使う場面があるのだろうか。どこかちぐはぐでシュールだ。



タヤマ先生は奥のグランドピアノに紙袋をどさりと置き、最前列の机をくっつけ始めた。特に指示もないが、愛華も手伝う。机の高さは微妙に違っていて、でこぼこした長机ができあがった。先生は袋の中に入っていた書類の束を出してきて、それをいくつかに分けてその上に並べる。

「今日これから職員会議があってさ、わたしが資料つくんなきゃなの。当番」

愛華が1枚ずつ資料を取ってまとめ、タヤマ先生がそれをホチキスで留めることになった。先生は、校長2つ留めじゃないと怒るんだよね、とぶつぶつ言いながら、ぱちんぱちんとやっていく。愛華は何て答えていいのかわからない。場を和ませるために出た言葉のように感じたが、ただのひとり言のようにも思える。

いつも授業の時に配られるわら半紙とは違う、真っ白なコピー用紙だった。わら半紙は手で握っているだけで、すぐに汗でふにゃふにゃになるが、これは水もはじいてしまいそうだし、注意をしなければ手を切ってしまいそうだ。慎重な手つきで紙を取り、先生に渡す。先生は、微妙なズレが気になるのか紙を立てて、机の上でしきりにとんとんと叩いている。そんな調子だったから、徐々に愛華の方が、書類を持ったまま待つようになった。自然と資料の内容に目が行ってしまう。1番上にはタイトルがあって極太の文字で「第七回職員会議レジュメ」と印刷されている。その下に日付があって、さらに校長挨拶と続く。議題は文化祭について、保護者会について等あったが、日程と簡単な補足があるだけで、あとはスペースばかりだった。そこにメモを書き込むのだろう。

何枚かページをめくると「10.」と番号の振られた後に「芝生田英太(3-5)の対応について」とあった。

それにはタイトルしかなく、その下は空白になっている。何者だろうか。3年だから顔も名前もわからない。こんなところに単独で名前が晒されるのだから、余程何かをしでかしたに違いない。ぽっかりと空いた真っ白のスペースに、想像をかきたてられる。ケンカなのか万引きなのか。頭の中には髪を茶色に染めた、目つきの悪い男の姿が浮かぶ。あるいは登校拒否になったとか。でも登校拒否なんて愛華のクラスにもいるし、そんなことをいちいち会議を話さないだろう。愛華の好奇心はどんどん膨らみ、思わず先生に「この芝生田って人はどうしたんですか?」と聞きたくなる。

だが、そんな生徒の内情を、すんなり教えてくれるだろうか。下手したら「余計な詮索するな」と怒られるかもしれない。愛華は喉元まで出かかった質問を引っ込めてページを元通りにし、芝生田英太の名前を封印した。先生は書類を眼鏡のすぐ前まで持ってきて、神経質に角を見つめている。人差し指と中指の第二関節が直角に曲がり、無駄に力が入っているのがわかる。職員会議が何時からか知らないが、こんな調子で間に合うのだろうか。

音楽室(2)

門を出て右に曲がり、校庭に沿って歩く。垣根が植えられているが、葉っぱはすかすかで中の様子がよく見える。すぐそこは野球部、その向こうはサッカー部。陸上部はそのさらに向こうだ。芳賀くんはバスケ部だからこの中にはいない。掛け声や金属音が至る所から聞こえる。そこを過ぎると、ソフトボール部のゾーンだ。足取りが自然と早くなる。校庭内に向いていた視線を道路に移し、誰とも目を合わさないように最大限の注意を払う。愛華は1年の途中まで、ソフトボール部に所属していた。部活動に入るのは気が進まなかったが、学校側の決まりで、どこかしらには所属しなければならない。どこにするか決められない愛華は、その時前の席に座っていたユミちゃんに誘われて、ソフト部に入ることにした。本音を言えば、吹奏楽部に入りたかったが、仲良しの子で入ろうとする人はいないし、両親にそれとなく話を持ち出すと「楽器代がかかる」と嫌な顔をされた。どうしてもやりたいと言えばやらせてもらえる気もしたが、そこまで押し通す熱意はなかった。ちなみにソフトボールならグローブ代しかかからない。

そんな風にして入ったソフトボール部だから、すぐに嫌になった。朝は早いし、土日も滅多に休めない。近所に住むひとつ年上のお姉さんが、小学校の頃とはがらりと態度を変え「先輩」と呼ばせてくる。球拾いをしながら、ナイスバッティング! ナイスプレー! と声を張り上げなければならないのにも辟易した。少しでも手を抜くと先輩に睨まれるため、最初の一週間は声が枯れてまともにしゃべることもできなかった。

だが本格的に憂鬱になってきたのは、入部から1ヶ月程経ち、本格的な練習が始まった頃からだった。愛華たち1年生は全部で15人いる。そのため、キャッチボールなど2人一組の練習を行うと、必ず1人余ってしまうのである。そしてその余った1名は、愛華になると決まっていた。

元々西中は、市内の3つの小学校から上がってきて編成されるため、同じ小学校出身者で派閥が形成される傾向がある。ソフトボール部の1年には、愛華と同じ小学校出身者は誰もいなかった。頼みの綱のユミちゃんも、教室では色々声もかけてくれるが、練習が始まれば、同じ小学の子とばかり話している。先生がいれば、3人一組でやれなどの指示を出してくれるだろうが、顧問は上級生にノックをしていて、まるでこちらに関心を示さない。愛華は決死の覚悟で近くの女子に声をかけ、仲間に入れてもらうが、なんだか居候みたいで肩身がせまかった。



夏休みに入ると愛華の気持ちは切れ、徐々に練習にも出なくなった。練習の予定表は居間のカレンダーの脇に貼ってあったから、サボっているのはバレバレで、母親が声をかけてきたが「行きたくない」と突っぱねるとそれ以上は言ってこなかった。「じゃあ飲み物作らなくていいのね?」と確認してきただけだった。戸棚には先週買ってもらったばかりの、スポーツドリンクの粉末が置いてある。他に誰も飲む者はいないから、いずれゴミになってしまうだろう。もったいないから自分で作って飲めばいいやと思ったが、実行に移されることはなかった。父親に知られて説教でもされるのかと覚悟したが、気づいていないのか何も言われなかった。

3日ほど無断で休むと、ユミちゃんから電話がかかってきた。ちょっと風邪ひいたみたい、と嘘をつくと、本気で心配しているようだった。悪い気がしたので「でもだいぶいいんだ」と声を張った。我ながらわざとらしい声だった。するとユミちゃんは「明後日は三年生最後の大会だから、来たほうがいいよ」と教えてくれた。いつも偉そうにしている三年の顔を思い浮かべ、うんざりした愛華は親と旅行行く、と嘘を上塗りした。ユミちゃんが黙ってしまったので、お土産買っていくよと言うと「いいよ」と言われ電話は切れた。

残りの夏休み、愛華は気まずい気持ちで過ごさなければならなかった。ユミちゃんは、果たして自分が部活に行きたくないのを気付かれてしまっただろうか。お土産を買っていく、とまで言ったのだから、もしかしたら体調不良と旅行が重なったと、信じているかもしれない。だとしたら新学期から、何食わぬ顔をして部活に参加しても、周りは何も思わないだろう。後ろめたい気持ちがあるなら、それこそ何か手土産を持参すればよい。だが全員が、温かく迎えてくれるだろうか。夏の練習はきつかった。肌は日焼けしてぼろぼろになるし、流れる汗はすぐに乾いて塩を吹く。休憩時間以外は水を飲むことを許されていなかったから、四六時中のどが乾いて頭はふらふらだった。そんな地獄の練習に半分も参加しなかった愛華に、周囲は冷たい目を向けるだろう。

結局愛華は夏休みが終わっても、部活動に参加することはなくなり、ユミちゃんとも距離を取るようになってしまった。ユミちゃんや他の運動部の生徒の肌の色は黒に近かった。愛華もいくらか日焼けしていたが、所詮3日ほど家族と海水浴に行った程度では、太刀打ちできるわけない。彼らが笑った時に見せる歯は白さが強調され、その度に愛華は、自分が日陰の住人となってしまったような気がした。



幽霊部員となった愛華は、なんだか自分が不良になってしまった気がした。とは言うものの、周りでそのことを咎めてくる者はいない。自分が部活をサボり続けていることに気づいた顧問が、担任にそのことを報告し、呼び出されて説教されるのを恐れていたが、一向にその気配はなかった。担任は40歳くらいの男で、薄いサングラスをかけ、前髪が少し後退していた。小学校時代に女の教師にしか習ったことのない愛華は、この教師と接する時無駄に緊張し、普通に話しかけられている時でも、怒られているような気分になった。現に男子に対して体罰を与えているのを見たこともある。部活をサボっいてるとバレれば、同じ目に遭うかもしれない。女の子が殴られるなんて考えづらいが、今は男女平等だし、自分がそうならない保障はない。無駄に思い詰めて、夜眠れなくなることもあった。



タヤマ先生と出会ったのは、そんな風に愛華が寝不足になりつつ、びくびくしながら日々を送っている頃だった。ある日の昼休み、愛華は生理になったが、ナプキンを持ってくるのを忘れてしまった。予定より一週間早かった。普段なら予定など関係なく、一式を鞄の奥にしまっておく。だが、その日は美術で画材一式を持ってこなければならなかったため、少しでも鞄にスペースを作るために机の上に置いてきてしまったのだ。ここまで予定よりずれてしまったのは初めてで、愛華は取るべき行動が判断できずに途方に暮れてしまった。そうは言っても、このままやり過ごすわけにはいかない。誰かに借りればいいが、こんなものを貸し借りするのは、不潔な気がした。だらしのない女と思われては困る。でも、ナプキンを忘れるなんて、誰にでも起こりうる事態なんだから、そんなに気にすることはないのかもしれない。自分だったら助けを求められたら喜んで協力するだろう。万が一制服を汚してしまったらと思うと背筋が寒くなる。

だが、そうなると誰に声をかければいいのか。愛華はその相手を選ぶのに、たまらない苦痛を感じた。もしかしたら自分が部活をサボりつづけていることに負い目とか、これ以上クラスメートに弱みを見せられないとか思ったのかもしれない。

いつまでも踏ん切りのつかない愛華は、どうせなったばかりで量も少ないし、それならトイレットペーパーでもあてて済ませてしまおうと判断した。

そうと決まればぐずぐずしていられないと、トイレにダッシュしていると、やや太めの女教師と鉢合わせた。眼鏡をかけ、桃色のカーディガンを羽織っている。見たことはあるが、話したことはない。おそらく別学年の教師だ。愛華の前に立ちはだかるように現れたから、自分に用でもあるのかと思い、教師の顔をまともに見ていた。だがそれは愛華の勘違いで、教師の方も不思議そうに黙って愛華を見ていた。やがて、脇目も振らずに急いでいた愛華が、教師に道を譲らないだけだったということに気づき、慌てて頭を下げて道をあけた。急な動作だったから、股の奥で嫌な感じを覚えた。教師はすぐに立ち去るかと思ったが、変わらぬ表情で愛華の様子を見ていた。怒られると思った愛華が無意識のうちに半歩下がると、教師は自分の下腹部に手を当て「なっちゃったの?」と聞いてきた。

動作と声のトーンで生理のことを指していることはすぐわかったが、愛華は一瞬嘘をついてしまうか迷った。だが、すぐにそんなことをしても無駄と悟り、大人しく首を縦に振った。

教師の方は、囲い込むように愛華の方へ近づき、さらに声を潜めて「もしかして、あれ、忘れちゃった?」と聞いてくる。窓側に追い詰められた愛華は「はい、すみません」と泣きそうになりながら答えた。

俯いたまま動けない愛華に、教師は「おいで」と声をかけトイレまで連れていってくれた。幸い誰もおらず、水道の手前で教師はナプキンをひとつ手渡してくれた。

「それ、ひとつあげるから使って。あのね、今度そういうピンチになったら保健室に行くといいよ」

愛華は泣き声で、礼を言いながら個室へ入った。情けないのかありがたいのか扉を閉め、事なきを得ると、実際に泣いてしまった。教師は出てくるまで待っていてくれるだろうと勝手に思い込み、涙をハンカチで完全に押さえ込んでから外に出たが、そこには誰の姿もなかった。

音楽室(1)

10月の体育祭では、競技の他に男子は組体操、女子は日本舞踊をやることになっている。全生徒で、だ。そのため夏休みが明けると、体育の時間はこれの練習になる。準備体操の後、教師の動きを見ながら、手を広げたりしゃがみこんだりする。いくらか出来るようになると、音楽に合わせて踊るようになる。本番では扇子をもって、ブルマの上にスカートを履く。さらに裸足にもならなければならない。足の裏にびっしりつくだろう砂利を想像すると、愛華は憂鬱な気持ちになった。早く過ぎ去って欲しい。教室にいる時は暑くも寒くもなかったのに、校庭に出ると日差しが強すぎて、伸ばした腕の表面が、じりじり言っている。頬や鼻の頭にも熱を感じるから、家に帰る頃は、顔も赤くなってしまうだろう。のらりくらりとした動作は、こういうジャンルなのだから仕方ないが、これでは日射病の患者みたいだ。手を頭上に掲げた時に、さり気なくおでこを拭ってみるが、思った程汗はかいていない。4時間目はあと何分くらい残っているのだろう。

校舎にかけられた時計に目をやると、視界に男子たちが折り重なって作るピラミッドが入った。全部で4段。付随動作で芳賀くんを探すと、下から2段目、一番左にいた。こちらにお尻を向ける格好だから、100パーセント確実ではないが、間違いないだろう。芳賀くんは背は高いけど細いから、きっと下から2番目なのだ。念のため周りに立つ男子たちの顔を確認し、その中に芳賀くんがいないのを確認した。どれも違う。ピラミッドに参加していない生徒は、周りを取り囲んで突っ立っている。背の低いもじゃもじゃ頭の先生だけが、あちこち動き回りながら、大声を出している。一体何を言っているのか。と思っていたら、突然山がぺっしゃんこになった。土埃が舞って何人かの生徒が大きな声を上げる。愛華も踊りそっちのけで見ていると、1番最初に立ち上がったのが芳賀くんだった。芳賀くんは大きな笑い声を上げながら、他の生徒を助け起こしている。体操着が土まみれになっている。

他に今の光景を見た女子はいなかったのだろうか。踊りはそのまま続いている。不意に風が吹いて、さっきの土埃が顔に当たった気がして、愛華は思わず目を細めた。



「ああ、それはね、わざとぺっちゃんこにすんの。多分崩れたんじゃないと思うよ」

放課後いつものようにタヤマ先生の元を訪れて、昼間の話をすると、なんでもなさそうにそう言った。

「なんで?怪我とかしないの?」

「知らない」

と素っ気なく答えて、タヤマ先生は楽譜をセットする。グランドピアノには黒い布がかけられ、その皺のより具合が砂漠を連想させる。

「去年東中が体育祭でそういうのやったんだって。一気に崩せば次の演目にすぐ移れるんだとか言ってた。いちいちピーピー笛吹いて降りていくんじゃ、小学生と変わらないんじゃないか、とか」

タヤマ先生は股の間に手を突っ込んで椅子の位置を合わせ、ひと息ついて、鍵盤を叩き始める。何の曲か認識しようとすると、いくらも弾かないうちにストップする。指がうまくかみ合わないのか、和音が3回くらい鳴っては止まる、を繰り返す。

「これ、今度3年生でやる曲」

愛華の疑問に答えるようにつぶやく。視線は前に固定されたまま、楽譜に顔を近づけて、音符を網膜に焼き付けているようだ。朱色のフレーム眼鏡の奥にある目が大きく開き、太いまつ毛が上を向いている。真剣なのだろうが、目尻が下がっているのと、頬がふっくらしているせいで、気だるそうに見える。背後のカーテンの隙間から西日が入ってきて、光があたった部分だけ、髪の毛が茶色く際立っていた。いや、この人は元から茶色い髪をしている。染めているのだ。

しばらく同じ部分をリピートして、ようやく4小節ほど弾けるようになってきたところで猛スピードで弾いて、それから手の動きが止まった。「おしまい」と膝を叩き、鍵盤の蓋を閉めてしまった。「あとは明日早く来てやろう」

一瞬自分がここにいるせいで、集中できないんじゃないかと愛華は緊張した。タヤマ先生の表情から心理状態を読み取ろうとする。もし本当に集中できないなら、今すぐこの場を立ち去るのが賢明だろう。しかし、この音楽室でこうして過ごすのは、何も今日が初めてではない。タヤマ先生は、気分が乗っていれば愛華そっちのけで何十分も弾き続けるし、1人で練習したければそのことをはっきりと言う。愛華も終わるまで聞いている時もあれば、飽きて帰ってしまうこともある。お互いに気兼ねしない仲なのに、それでも相手に迷惑をかけているんじゃないかと心配するのが愛華の性格だ。



「それで、愛華ちゃんは崩れたピラミッドの中に芳賀くんがいて、気が気じゃなかったってわけね」

愛華の強張った表情にまるで注意を払うことなく、タヤマ先生はからかってくる。

「そんなわけない」

「あるね」

そう言って先生は、グランドピアノに載せた愛華の左手を、鍵盤みたいに叩く。叩くと言うよりボディタッチに近い。先生の指はやわらかい。

「体育は藤部先生だっけ?愛華が真面目にダンスやってないって告げ口しとくから」

「やめてよ。私ただでさえよく注意されるんだから」

今日もピラミッド崩壊の後、角度が悪いと腕を引っ張られた。乱暴な動作で、愛華は体育教師全般が苦手だ。タヤマ先生は上目遣いで、にやにやこちらを見てくる。心の内を覗かれている気分になる。

「嘘だよ。あたし藤部先生となんて一度も喋ったことないし」



それから体育祭のダンスの悪口で盛り上がった。タヤマ先生はあんなのセンスゼロだし、見てる方もちっとも楽しくない、と散々こき下ろした。先生は日本舞踊とは呼ばずにダンスとしか言わない。正式な名称を知らないのかもしれない。校長頭おかしいでしょ、とまで言うので、愛華は無意識のうちに日本舞踊擁護派に回り

「でも教育の一環なんだから、楽しくなきゃいけないわけじゃないでしょ?」

なんて言ってみる。

「教育?」

タヤマ先生は苦いものを口に入れたような顔をする。教育者のくせに教育という言葉を知らないのだろうか。愛華は済まし顔で「そう、教育」と返す。

愛華さんは真面目なんですね」

「別に真面目とかじゃないよ」

愛華は反論するが、口がもごもごしてしまって、それ以上会話は続かない。先生が不真面目すぎるんだよ、とでも言えばもっと盛り上がっただろうか。だけどそこまで言う勇気はない。

それから先生が荷物をまとめ始めたので何かと思ったら、今日はこれから学年会議、とのことだった。会議なんて退屈で意味ないのに、いきがってしゃべりまくる奴がいてうざい。理科の長尾とか。散々文句を垂れながら、タヤマ先生は音楽室の鍵をかけ「ばいばい」と言って去っていった。音楽室の前で別れる時、タヤマ先生は「さようなら」とは言わない。

十字路(21)

店を出ると人通りはあまりなく、少し歩くと前にいるのは、しわくちゃのワイシャツの中年サラリーマンだけになった。車を停めたのは不動産屋の先の信用金庫の駐車場で、駅から離れているそこは、夜でも施錠されることはなかった。私は不動産屋に貼られた物件情報を順番にけちをつけ、お買い得土地情報の1番端まで終わると、彼女に口づけをした。何の前触れもなかったので、うまく唇が重ならなかったが、ひたすら体を押し付けて彼女が逃げられないようにした。化粧の匂いがする。すぐに顔を逸らされると思っていたら、彼女は力を抜いて、気の済むまでそのままにさせた。予想よりも長い時間、唇をつけていた。
彼女とセックスがしたいと激しく思っていたが、今日に限っては、必要以上に求めないようにと前持って心に決めていた。彼女の性欲について考えを巡らすよりは、すっきりした気持ちでベッドに入り込みたかった。私は改めて、彼女との距離を縮めたかったのだ。

だから、駐車場を出て少し車を走らせたところで彼女に「少し遠回りしない?」と提案された時も、その言葉に含まれるだろう彼女の意図その他については、とりあえず保留にして、少しでも彼女といられる事実を、無邪気に喜んだ。
遠回り以上の指示はないので国道n号線へ出て、南方面へ車を走らせる。かつて彼女とお台場へ行った時に走った道だ。あの時は火星にでも来た気分だったが、今となると、どう見ても寂れた日本の風景にしか見えなかった。一瞬、その火星エピソードを彼女に披露しようと思ったが、笑える話でもなかったのでやめた。このままぐんぐん進み、彼女の了解を得ることなく、夜の海まで行くことも考えたが、後悔することは目に見えていた。私は速度検知器のゲートをくぐった次の信号で左へ折れ、役所方面へ走らせた。片道一車線の道路へ入ると、一気に暗くなる。確か道の左側に運動公園があるはずだったが、入り口の場所すらはっきりしない。ずっと先に見えるコンビニの明かりが、灯台のように見えた。
彼女は私のコース選択について、特に何も言わなかった。というか、車に乗ってからほとんど喋っていない。ハンドルを握ってから、私は彼女をホテルへ連れ込むべきかについてと、検問にぶつからないためにはどのルートを取ればいいのかに頭を取られ、あまり彼女の状態について注意を払っていなかった。世間話くらいはしたかもしれないが、あまり覚えていない。ひょっとしたら、眠くて帰りたくなってるかもしれない。あるいは車酔いの可能性もある。私は「帰る?」と「酔った?」をテンポ良く繰り出したが、いずれも首を横に振られただけだった。最低限の言葉と動きで済ませてしまおうという、狙いが感じられ、というか狙いとは何だろう。完全に酔いが覚めました、というアピールか。逆に酔っ払って、無口になってるのかもしれない。
私は試しに助手席側の窓を数センチ開けてみたが、入ってくる風に対して、良いとも悪いとも言わなかった。風が私の前髪も揺らしたので、気づいていないとは思えない。私は冷房を切り、運転手側の窓も開けた。虫の鳴き声とタイヤの音が、冷たい風と共にはいりこんでくる。

特に脈略もなく走っていたが、いつのまにかn号線に通じる道へ出てきてしまう。時計を見ると、1時間以上走っていることになる。そろそろ潮時だ。そう思うと眠くなってくる。n号線の信号まで来ると、私は自宅の方角へハンドルを切った。再び片側2車線へ来ると、他に走っている車はいなかった。道路は緩やかに右へカーブし、田んぼばかりで遠くまで見渡せるが、ほとんど闇に塗りつぶされてしまっている。なんとなくアクセルを踏み込み、無意味にエンジンをふかす。回転数の上がったエンジン音が、耳に届く。
ようやく24時間営業のファミレスの明かりが見え、風景が街らしくなってきたところで、彼女は「もう少し。帰らないで」と訴えてきた。私はあくびをしたのを悟られないようにしながら、行きたいところでもあるのかと尋ねるが「別に」という返事しかない。声に表情はない。私は何かを察しなければいけないのだろうか。何度か彼女の顔を盗み見るが、道路灯の光くらいでは、表情は読み取れない。彼女は自分の腕を抱えるように座り、あごを引いて、じっと前を見ている。たまに下唇を人差し指でなぞる。黒いブラウスはゆったり目のシルエットで、余った布が胸の辺りに寄せ集められ、シートベルトを谷間にして、複雑なシワを作っている。どうして黒い布に色の濃淡がつくのか、不思議に思う。

私は鈍感な男でいようと心に決め、彼女の気が済むまで、ひたすらn号線を行ったり来たりした。いちいち右折したり左折したりするのも面倒なので、手頃な交差点でUターンをした。他に車もいないので、右折車線とか、そんなものにはこだわる必要はなかった。悪ふざけで、二車線の真ん中を走ったり、ついでに信号も無視ししてみた。
いい加減彼女も根を上げないので、川向こうまで行動を範囲を伸ばそうと考えたところで、突然「止めて」と声を出した。久しぶりに聞いた彼女の肉声は、なんの前触れもなく発せられ、聞き間違いを許さないような雰囲気だった。少し先の交差点を、左に折れて停車し、サイドブレーキをかける。彼女はすぐにシートベルトを外したが、しばらくそのまま動かなかった。体調でも悪くなったのかと聞いても、返事はない。気まずくなった私はエンジンを止め、座席を少し倒した。周囲が虫の音だけになると、ここまでの運転の疲労感が肩や腰に出てくる。
やがて彼女は意を決したように「ちょっと待ってて」とだけ言って外へ出た。さっきとは違う曖昧な声で、"待ってて"の部分はほとんど聞きとれなかった。やはり車に酔ったんだと思い、ダッシュボードからビニール袋を取り出し、後を追う。だが、彼女はドアに手をかけたまま、交差点の真ん中を見つめていた。私は彼女の目線の先と、表情を交互に見る。
他と比べれば小さな十字路だった。n号線と交差している道路は細く、数メートル先は闇に消えてしまっている。通ったことのない道で、どこへ通じるのかはわからない。歩道は白いラインで区分けされてるだけで、しかも道端からは雑草がはみ出し、歩行者がまともに歩けないのは明らかだ。アスファルト全体がひび割れ、へこみ、もう何年も補修されてないようだった。私は子供の頃に見たn号線のことを思い出した。

不意にドアを閉める音がして、見ると彼女は道路へ向かって歩いている。声をかけようとしたが、迷いのない足取りを見て、タイミングを失ってしまった。
交差点の中央には、それを示す十字の表示が描かれていて、彼女はその上で立ち止まった。十字は綺麗な90度ではなく、少し角度がずれている。暗闇の中、そこだけは明るく、スポットライトでも浴びているかのようだった。光の加減でこちらに向けた彼女の背中は黒く、シルエットからはみ出た髪の毛は、金色に輝いている。彼女は見えない客席に向かって、何かの演技をしているように見える。
劇場の裏方のような気分になって彼女を見守っていると、今度はひざまずいて四つん這いの格好になった。白いスカートがこちらに向けて突き出され、ふくらはぎの地肌が露わになる。と思った瞬間、彼女の体中の力が抜け、その場に倒れこんだ。うつ伏せの状態で、顔を右に向けている。黒くて長い髪が、彼女の顔を半分くらい覆っている。ちょうど十字の表示に沿うように、彼女は横たわっていた。地面には小石が散らばり、その中には車のヘッドライトのかけらも混ざっているのか、彼女の周りでは細かい光が放たれている。無意識のうちに、私は自分の左頬をさすった。
私は自分の取るべき行動について考えていた。例えば彼女が突然狂ってしまったということは、十分考えられる。だとしたら、今すぐ駆け寄って抱き起こし、どこまで正気を保っているのかを確かめ、夜間でも開いている病院を探さねばならない。だが、ここまでの彼女の様子を振り返ってみると、どこか確信に満ちた行為であるような気がした。今、彼女が十字路の真ん中で横たわる行為は、何かしらの儀式なのだ。そう思うと、安堵と共に、どこか侮蔑的な気持ちを覚える。
どちらにせよ、私の目の届く範囲にいる限り、急いで何か行動を起こす必要はない。気をつけるのは、他の車が来た場合だが、この見通しの良い道路なら、手遅れになることはないだろう。

考えがひと段落すると、煙草が吸いたくなってきた。生まれてからまともに吸ったこともないくせに、肺を煙で満たしたくなった。あるいは狂った女を煙草でもふかしながら、優雅に眺めたいのかもしれない。
車の中を見ると、助手席に彼女のバッグがあった。運転席側から手を伸ばして持っきて、ためらうことなく止め具を外す。革製の表面は熱くも冷たくもなかったが、中に手を突っ込むと冷んやりとした。
暗くてよく見えないから、手探りで目的のものをつかみとろうとする。居酒屋で彼女は、煙草を吸っていただろうか。間違いなく吸っていた。銘柄はわからないが、細長い箱に入っていた。ライターと共にポーチに入れていたような気もするが、そこまではわからない。どちらにしてもそう手間はかからずに見つかるはずだ。
財布や化粧ポーチやキーホルダーの感触に紛れて、硬いものが指先に当たった。間違いない。強引に引っ張り出すと、長細い箱が手の中にあった。だが、何か様子がおかしい。見慣れないデザインだし、煙草の箱よりも一回り大きい。目の前に持ってきて確認してみると、それは妊娠検査薬だった。妊娠検査薬は上半分のビニールが剥がされ、上蓋は外側にめくれていた。開けてみると、中にはスティック状の袋が何本か入っている。元々何本あったのかはわからない。私はそれをバッグの底の方へ押し込み、止め具を戻した。が、再び開けて箱を取り出し、用法等の書かれた細かい字を目で追った。さっき無理に押し込んだせいなのか、箱の側面が少しつぶれている。ひと通りのやり方を把握すると元に戻し、バッグを助手席に向かって投げつけた。
その間も彼女は横たわったままだった。

‥‥

光が迫ってきた時、それが何を意味しているのかについて、なかなか気づかなかった。すべての風景が黄色がかり、まるで強い風でも吹いたみたいに、周りの草木が後ろへのけぞっているように見えた。私は映画の主人公になったような気持ちになっていた。
彼女を見る。相変わらず横たわったままで、久しぶりに色彩を帯びた彼女の服や髪が、無性に懐かしく見えた。だが、ようやく状況を飲み込んだ私は、精一杯の力で地面を蹴り、彼女の元へ近づく。

圧倒的な光に照らされた彼女の顔には、一切の影がなかった。



<了>

十字路(20)

これは国道n号線についての散文である。

意を決して彼女をメールで誘ってみると、特にためらう様子もなくOKの返事がきた。すでに9月も半ばになっている。あの一件以来、電話をしても大した盛り上がりもなく終わってしまう。それなりに楽しく話したつもりでも、電話を切ると疲労感だけが残り、無意識のうちに彼女を気遣っていることを実感させられる。海へ旅行する計画も、いつのまにかなくなった。なんのアクセントもなく8月が過ぎ、暑かったのかそうでもなかったのかもよくわからなくなっていた。
最終週の月曜日に、塾からの給料が振り込まれ、ようやくひと息つけたような気持ちになれた。こちらから特に連絡もしなかったが、二度と関わることはないだろう。塾の人間には、通夜の日以来会っていない。

選んだ店は、私が彼女に気持ちを伝えた居酒屋だった。ちゃんと付き合うようになってからは、一度も来ていない。それでも店はちゃんと潰れずに残っていたし、内装も店員も何も変わっていなかった。なぜかそれが奇妙なことに思えて、無理して変化を探してみた。メニューが一部と、トイレの貼り紙が変わったような気がする。
彼女と会うのは、ほぼ2ヶ月振りだったが、久し振りと挨拶するのが嫌で、つい3日前に会ったばかりのように振舞った。彼女も私のそんな気持ちを察したのか、第一声で「お腹すいた」と言って、あとは他愛のないことを話した。彼女は夏休みも大学へ通っていたらしい。
知らないうちに、彼女は髪を黒くしていた。この前までは、ほとんど金に近い茶色だったので、会った瞬間は別人のように見えた。長さも肩にかかるロングで、毛先もみんなまっすぐ下を向いている。その上、黒いブラウスなんか着ているから、いよいよ大人しくて清楚な女に見えてしまう。首元は大きく開かれ、白い鎖骨が強調されている。私は思わず「似合わねーよ」とからかいたくなったが、それを言ったら、やはり久しぶりの再会というシチュエーションとなると思い、口をつぐんだ。
健全な恋人同士なら、ここまで変わった髪型に触れないのは死活問題になるだろう。私は彼女の新しい髪型に対する正直な気持ちを伝え、彼女を喜ばせたかった。そして、信号待ちの時なんかに、さらさらした毛先に触れてみたかった。
でも、やはり言えない。黒く染めるに至った理由とか背景とか、話題がそこに行くに決まっているからだ。もちろん彼女は大きな決意を持って、髪型を変えたのではないことはわかっている。だが、私は彼女の黒い髪を見た瞬間、やはり喪に服すという言葉を連想した。そしてそれは、おそらく彼女にも伝わっている。
葛藤は駐車場に車をおさめるまで続き、白線内にまっすぐ停めるのに、何度も切り返す羽目となった。私は車を降りるとすぐに助手席の方へ行き、彼女の右手を握った。すぐに握り返され、私は髪型に触れない罪から逃れられたような気になった。

酒を飲んでいる間はずっと、先週起きた同時多発テロの話をした。アメリカでテロが起きた時、私はベッドで本を読んでいて、ニュースが大騒ぎしていることに、全く気づかなかった。彼女の方は風呂上がりで、髪を乾かしながら22時のニュースを眺めていたところに速報が入り、その後二機目がビルに突っ込む瞬間を生で見た。ちょうど一機目が衝突した状況を、キャスターが興奮気味に説明している時だった。背後のモニターには、灰色の煙を吐き出すタワーの姿を映し出されていたが、音声はなかった。事故なのか事件なのかもはっきりしない中、別の旅客機が画面の右側から現れ、滑り込むようにビルの横腹をえぐった。飛行機は手品のように影も形もなくなり、一瞬ただそれだけのことかと思ったが、やがてタワーは、二本とも崩壊した。
彼女はすぐに私に電話をかけてテレビをつけさせ「映画みたいだ」と言った。私がテレビをつけると、瓦礫と大量の埃が映し出されているだけだった。彼女の語彙が少ないのか、気が動転しているのか"映画みたい"という言葉は何度も繰り返された。確かにその後、連日流れた二機目突入のシーンは、あまりに鮮明に映り過ぎていて、合成映像のように見えた。だが、それは彼女の言葉のせいのような気がした。私のオリジナルのショックは、すっかり上書きされてしまい、本当は別の感情を抱いていたような錯覚を覚える。
大統領は演説の中で、犯人グループに対する報復を宣言した。日本のテレビ局は、軍事評論家を連れて来て、アメリカの所持する空母とか機関銃とか、そういうことを事細かに説明させた。戦争が始まるらしかった。

私は、やはり自分たちの近況その他の話に及ぶのが嫌だったので、この世界的大事件の話ができるだけ続くように、イスラム教徒が迫害を受けている事を嘆いたり、彼女のホームステイの期間中じゃなくて良かったと喜んだりと、積極的に話題を提供した。聞き手に回った彼女は、ファジーネーブルを立て続けに3杯飲んだ。頬に赤みがさし、アイスを食べたいと言い出した頃には、私の手元のビールが、すっかりぬるくなっていた。
メニュー表を新聞ように掲げ、なかなかデザートを決められない彼女の様子を見ながら、私たちの関係は、様々な犠牲の上に成り立っているような気がした。