昨日の記事について、「珍しく感情が見える」とコメントをいただき、その感情とは、ためらいのことではないか、と思い、文章における「感情」とは、詰まるところそれを書くか書かないかの迷いとかためらいに収束するのではないか、と思った。収束ではない。似たような言葉で、収という字に、瞼という字に似た字が付いたのがあった気がする。とにかく、取捨選択に行き着くのではないか、という話だ。
私は昨日の最後のエピソードの部分で、ためらいがあり、書き始めたところでわざわざ「最後に書くが」なんて宣言しているのだから、できれば書かずに済ませたいみたいな気持ちもあったのかもしれない。あのエピソードについて、読んだ人がどんな考えを抱くかは別として、私はやはり、読んだ人が私の側につくような書き方をしている。それは主張と呼ばれるものだから、当たり前の行為なのかもしれないが、私はそれが気にくわない。
だから、私はネモちゃんが玩具の車を乗り回していて、友人の手を轢いた、と昨日書いたが、それは最初「玩具の車で遊んでいて手にぶつかった」というふわっとした書き方で、少しでも私の非となる原因を取り除こうとしたが、やっぱりちゃんと書いて、「先に注意しない親だって悪いだろ」という気持ちをいくらか抱かせようと試みた。消極的に。
私は、このブログを家族や友人に見せてはいないから、こんな風に相手を気遣うのはある意味滑稽だ。頭に来たのなら、自分に有利な書き方をして、相手をどこまでも貶めて構わない。最低限のルールを守れば、ブログはそれをすることが許される。私は自分の正当性を証明したいという思いが強すぎるのかもしれない。それはドラクエのラスボスが、戦いの寸前に主人公のパーティを全回復させてしまう心境に似ている。完璧な相手をノックアウトさせたいのだ。つまり私は完璧な文章で当時の状況を再現して、そこで読んだ人全てに、「あなたが正しい」と思わせたいのである。
しかし、いざ文章にしてみると、その正当性は簡単に揺らぐ。私は私の内面しか見られないからだ。頭の中で考えているうちは、頭の中に、相手も自分も収まっているから、他人と言ったって自分の脳細胞の一部なのだから、進んで自分の愚かさを見せてくれる。あるいはそれが自分ということもあるのだろうが。しかしどちらにせよ文字は外だ。私もあなたも、100%の愚者になることはできない。
私は百聞は一見にしかず、をもじって、「百思考は一文にしかず」ということわざを思いついた。