意味をあたえる

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読書瞬間すぺしゃる

すぺしゃる、と言っても、複数の本をいっぺんに紹介するだけである。すぺしゃる、が平仮名なのは、私が小学校のころ、四年生でわが家に初めてビデオが来たときに、「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組が当時流行っていたので、それのスペシャルを録画した。仮面ノリダーとか。そのときラベルにまず「とんねるず」と書こうとしたら、「ドラえもん」みたく、どこからカタカナで平仮名なのかよくわかんなくなって、「トンネルズ」と書いたら全部違った。バランスをとるために、「スペシャル」を平仮名にしたのである。私の家はビデオの導入が他の人よりも比較的遅くて、他の子が、
「ゆうべの「トンネルズ」眠いからビデオに録ったわ」
と言うのに話を合わせ、私は眠いのを我慢して必死で見たのである。私は長男だったから、夜九時には妹も弟も寝るから私も合わせて一緒に寝ていたから、九時からの番組を見るのは、きつくてしかたがなかった。番組が終わった頃に、
「終わったから寝なさい」
と母に起こされることもあった。「寝ろ」と起こされるなんて、どれだけ矛盾しているのだろうか。母の手は皿を洗っていたので、すべすべしていた。

高野文子「ドミトリーともきんす」

漫画である。内容は、20世紀に活躍した日本の科学者たちと、ひとつ屋根の下に暮らす、という話です。読み終わってから、これが、科学者たちの書いた本の読書案内であることを知った。章ごとに一冊ずつ紹介され、漫画も内容にまつわるミニマンガ風である。専門書ではなく、一般向けの随筆等、である。私は全部読みたいと思った。

あとがきより引用。

自然科学のことを、実用の方面に入れるのはたいへん乱暴ですが、
自然科学の本を紹介する役目なら、
実用と言えなくもありません。

(中略)

まずは、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをしました。
変に聞こえるかもしれませんが、
涼しい風が吹くわけは、ここにありそうなのです。

わたしが漫画を描くときには、
まず、自分の気持ちが一番にありました。
今回は、それを見えないところに仕舞いました。

自分のことから離れて描く、
そういう描き方をしてみようと思いました。

(中央公論新社 p117)

引用の中で、「涼しい風」と出てくるのは、自然科学の本を読んだあとは、小説の読後感と異なり、「乾いた涼しい風が吹いてくる」ようだ、と言っていて、科学者の本を紹介する本なのだから、その本自体も、科学の本に近づけるべき、と考えたためである。そうやって、読み直すと、確かに絵も書き込みが少なく、ゆるい。でも、高野文子の別の漫画、私は「るきさん」と「黄色い本」を持っているが、元からゆるい。言い換えれば、生まれたときから悟りを開いてしまったかのような、絵である。

ところで、「気持ちを込めない」というのは、あらゆる表現に通じないだろうか。つまり、気持ちを込めた表現は、まず、失敗であると私は言いたいのである。表現は、気持ちというか、自分の欲との戦い、という面がある。そう考えると、私がこのブログで心がけていることも、全部いかに自分の気持ちを排除するか、に通じる気がする。例えば、この記事のカテゴリーは、「読書瞬間」と名付けたが、「瞬間」でなければ、自分の気持ちが追いつき、割り込み、本自体の価値を伝えきれないと、判断したからではないか。全部後付けだが。しかし、世の中の「言いたいこと」「伝えたいこと」「作者の気持ち」というのは、すべて後付けでないだろうか。

岡本かの子「家霊」

 湯気や煙で煤けたまわりを雇人の手が届く背丈けだけ雑巾をかけると見え、板壁の下から半分ほど銅のように赫く光っている。それから上、天井へかけてはただ黒く竈のようである。この室内に向けて昼も剥き出しのシャンデリアが煌々と照らしている。その漂白性の光はこの座敷を洞窟のように見せるばかりでなく、光は客が箸で口からしごく肴の骨に当ると、それを白の枝珊瑚に見せたり、堆い皿の葱の白味に当ると玉質のものに煌めかしたりする。そのことがまたかえって満座を餓鬼の饗宴染みて見せる。

(筑摩書房 「岡本かの子 ちくま日本文学037」 p186)

これは食堂の中の様子の描写だが、冒頭の「雑巾をかける」というのを、私は壁に物干しのようなのがあって、そこに使用済みの雑巾が干してある、と読み違え、(汚いなあ)と思ったら違った。壁を拭くという意味だった。私はこういう読み違えをよくする。だから、風景の描写は億劫なことが多いが、今回はとても心地が良い。それが岡本かの子だからなのか、私の読書の質が変わったからなのかはわからないが、多分両方だ。この本は図書館で借りたが、そのときは最近の作家の本などもぱらぱらめくったが、圧倒的にこの本が良かったので、私は、借りた。図書館のカードのバーコードはすり減って消えかかっているので、私はいつも読めないんじゃないかとヒヤヒヤする。図書館の職員は「研修中」という札を胸につけていて、さらに、首にコルセットを付けていて、私は一瞬コルセットと名札がセットに見えて二度見した。

保坂和志「未明の闘争」

引用は二度目である。デジャヴについての一場面。

 誰でも憶えがあるはずだ。アキちゃんが憶えがなかったのは、ぼんやりしすぎていたためか、アキちゃんの考えが現実的すぎたからだろう。授業中先生が黒板の前に立ってしゃべっているのを見ているときにふいに、「あ、これとまったく同じ場面を見たことがある。」という強い実感が掠め過ぎてゆくあれだ。一秒二十四コマの映画に、一コマかせいぜい五、六コマぐらい紛れ込んだような感じですぐに消え去る。私は強い実感なのに「掠め過ぎてゆく」というのは「鉄のぶよぶよした感じ」みたいで矛盾といえば矛盾だが、「これとまったく同じ場面を見たことがある。」というのが矛盾なんだから、それはそれを語る言葉が矛盾しない方がおかしい。だいたい言葉というのはふつうの現実をしゃべるようにしかできていないのだ。

(講談社 p59)

「矛盾しないほうがおかしい」という言葉の説得力が愉快だ。これが保坂和志の魅力で、エッセイでも小説でも、こういう部分が必ずある。「未明の闘争」は、終始こういうのの連続で、というか私はまだこの小説の五分の一も読んでいないから、終始もなにもないのだが、私はせっかく自分で買ったのだから、時間に追い立てられずに読みたい。「初めて読む」は人生で一度きりしかないので、丁寧に行いたい。