意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

比喩とズイショさん

昨日上記の記事を読んで、そういえば以前私はこの記事が掲載されているnoteというサービスに記事を投稿しようと思った時期もあったが、そうしたら
「長いテキストはスマホからはできません」
という注意があって
「冗談じゃない」
と思って、それ以来投げた。いい加減スマホ投稿にも対応したのだろうか。

だけれどもnoteにかぎらず、相変わらずWeb界隈では、「スマホはライトユーザー」みたいな雰囲気があって、たとえば私は数日前の記事ではアマゾンの広告を立て続けで貼った記事があったが、その際スマホのアプリでやったら、広告がどんどん入れ子状になってしまい広告の中に広告、まるで重層下請けのような、上空から見たピラミッドのような外観になってしまい、実は以前にも引用の中にどんどん引用がつけられ、そのときはサラブレッドの血統表のようになってしまったのだが、そのときはそれで読者を不思議な気持ちにさせられれば良いと思い放置した。しかし数日前のときは、もうそういうの二度目だし、私の意図もそういうおちゃらけた感じでもなかったから、どうにかしようと思い、私はWebサービスの会社に勤めたこともあるから、すぐにHTMLのタグが入れ子になっていることは察しがついた。

だから単純な話タグを入れ替えれば良いのだが、アプリの方の編集画面でタグを表示させることがどうしてもできない。ブラウザでやってもスマホ向けのページだと大差なく、仕方なく一番下の「PC向け」のリンクをクリックしたが、これが豆粒みたいな外観で、私は幸い視力はいいから豆粒でも心は折れたりしないが、画面をスクロールさせようとしても、意図しないぶぶんが動いたりして、あとコピペの範囲も数行に渡るといきなり反転したりしてらちがあかず、結局PCを立ち上げて対処した。

スマホの範囲選択の機能についてはもうひとつイノベーションが必要な感じだが、サービス側にももっとやりようがあるだろうと思う。さっきのnoteもしかりだが、スマホは画面が小さいから、長文を書く人なんていないだろう、という先入観がサービスの拡大を阻害している。スマホで長文を書く人は少数かもしれないが、そこまで奇特な人というわけではない。スマホやPCが登場する以前も、名前は失念したが、家事の合間にエプロンにつっこんでいたメモ用紙に少しずつ文字を綴り、小説家としてデビューした主婦もいる。

むしろオリジナリティを追求したい、人と違った視点を持ちたいと希求する人が、当たり前のようにパソコンに向かってしまうのは問題だ。視点というのは文字通り目に映る風景なのだから、たとえばパソコンの画面越しに花でも置いたらどうだろうか。とたんにあなたの文章は華やかなものになるだろう。やがて賢明なあなたなら、部屋そのものの風景を変えるより、自分が動いた方が効率的だと気づくはずである。そんなときにデスクトップなら問題外だし、ラップトップも場所をとる。スマホで文を書くことがいちばん効率的であるということは、誰でも気づいて当たり前の行為なのである。そこにサービスの提供側が気づかないのは、怠慢である。

私のように無尽蔵な可処分所得を持たないものにとっては、情報処理端末を複数に分けるのは極めて非効率的であり、ゆくゆくはPCは処分し、すると私は今黄色いちゃぶ台にノートパソコンを置いているから、そのスペースが空くので、気が向いたらそこで漫画でも書こうと思う。以前は良い台がなかったので、アイロン台の上で書いたこともあった。


話がだいぶそれたが、ここからがズイショさんの話ですが、前段の話も一種の比喩として受け取ってもらえれば問題ありません。

ズイショさんが比喩の代名詞として各所で語られていることについては、私も漠然ではあるが気づいていて、むしろ最近では、
「ズイショは比喩にあらず」
というスタンスが新しいとかクールだとかと、もてはやされている。私自身はズイショさんの文章については
「きわめて目的意識の強い文章」
という認識を持っていて、どうやらあらかじめ書く内容を決め、それを忠実に守ろうとするタイプのように見える。小説でも随筆でもあらかじめ内容を決める人は多く、私も以前は「主体の主張」を重視し、それ以外を推敲という作業によってこすげ落とすという、極めて体脂肪率の低い文章を目指したが、そうしたら疲れたからやめた。また、小説でも以前は美しいラストにこだわった時期もあり、ある話では主人公の恋人が真夜中の交差点で、主人公の教え子を自殺に追い込んだことを告白し、静かに真ん中に横たわるとそこには十字路を示す白いラインが引かれていて、あたかも十字架に磔にされたような形になり彼女は光につつまれる。その光というのが実はたまたま巡回中だったパトカーのものであり、お巡りさんが、
「コラ!」
と激怒してラストだったが、それを考えついたときは興奮して、早くそのシーンが書きたい! と思ったものだが、けっこう長い話になって、ようやく辿り着いたと思ったら、問題の交差点には二人で車で向かうのだが、ヘッドライトにうつし出された縁石のことを書いていたらどうにも面白くなって止まらなくなってしまい、肝心の告白と磔のシーンがついでみたくなってしまった!

それで、自分の書きたいことを書きたいように書くというのは大変な集中力が必要であり、ズイショさんの文章荷出てくる比喩とは、そうした集中力の維持、あるいは飽きの回避のための息抜きのようなものなのである。

なので、記事の冒頭のほうで「どうして比喩がうまいんですか?」という素朴な質問にズイショさんは、
「うまく書かないと死んでしまうから」
と答えた、というエピソードを披露しているが、私はそれを読んで納得するぶぶんがあった。つまり比喩がなければ、ズイショさんは自分のイメージする結論、ゴールにたどり着けずに死んでしまうのである。

そのことをふまえて曲解すると、比喩を上達させるためには、とにかくまずは飽きっぽい性格になること、それと自分の文章を突き放すこと、そして突き放しても書きたいと思う動機を、命にからめて見つけることである。それが無理そうな人は諦めよう。または、私のように全体を比喩にするのも手である。