一昨日こちらの記事を読んで、私も同じ風に考えている、と思った。しかし意味合いは違うのかもしれない。私は物心ついてすぐくらいから、どうして自分が自分以外にありえないのか、奇妙であった。台所の換気扇の近くの椅子を見つめながらネストする自分という枠にくらくらした。椅子は私(居間)の方を向いており、そこは父と母の喫煙席でもあった。元はどこでも構わず煙草を吸う夫婦であったが、私が喘息になってから、喫煙エリアを設け、それは台所の換気扇の前と、父の部屋であった。椅子にはタオルがかけられ、そこで手を拭く決まりだった。流しの前には電子レンジがあり、その取っ手にもタオルがかけられていたが、そちらは皿を拭く用であり、それで手を拭こうとすると注意された。その電子レンジの前で、私が小学5年のときに家に帰ると何故か父がいて、私がその理由を問いただす前に弟が事故に遭ったと知らされた。父は仕事人間で昼間にいることは滅多にないから、私は父の存在を確認した瞬間に、弟の事故という事実の何分の一かを知らされていた。
私は上記の記事を読んだ翌日に強烈な脱自分感覚を味わった。それは車を運転しているときで、そのときは会社からの帰りで慣れた道であり、前を走る車もなくまっすぐな道だったので、私は最低限の筋力しか使わずに車を前に進めさせることができた。車が土手の途中まで来た瞬間(私の車は川の側を走っていた)突然座席に沈み込むような感じをおぼえ、頭の中に座席の鉄製の骨組みやそこにぴんと張られた布のイメージが広がった。それは私と私の距離が極めて広がった瞬間であった。後から考えるに、極めてリラックスし微動だにしない体勢でありながら、ものすごいスピードで移動するという状態が私を私でなくさせる行為に似ていたからそういう感覚が訪れたのではないか。
そういう感覚で車を運転をするのが危ないから私は「前後を走る車はなく」なんて書いたのかもしれないが、私は車間距離に普段からかなり余裕を持って運転していて、それは母が昔に大学生の運転する車に追突されたことが理由で、そのとき母はスーパーから突然出てきた黒い車との接触を避けるために急ブレーキを踏んだら後ろから大学生に追突された。大学生はその場では「すみません」という感じだったがあとから「そもそも急ブレーキを踏まなければ事故は起きなかったのだから、こちらが100%悪いとは言えない」とゴネだし、しかし追突は追突した方が急ブレーキのリスクを加味した車間距離を確保しなかったのだから、やはり追突したほうが悪いということになるから、向こうの保険会社は何やっているんだ、と叔父は怒っていた。何故叔父が怒るのかというと、叔父は中古車販売業を営んでいて、自動車保険も扱っていて、母を初め、私の親兄弟と私はみんな叔父の世話になっていたからである。