私の会社の新人で、私が直接見たわけではないけれど、その人は営業だったがある日会社の車でお客様の家へ出向き、チャイムを
「ピンポーン(音)」
と鳴らしたが、中から人は出てこない。14時のお約束なのにおかしいなあと思っていて、しばらく待ってみようと思い、そのまま2時間だか4時間その場に突っ立っていたらしい。
こんなエピソードを聞かされると
「ああ、ゆとりらしいなあ」
と思っていたが、この人というのが私よりも年上の人で、私はゆとり世代よりも上の年齢で、週休2日制は中学二年のときに隔週で始まったところだったので、私はゆとり世代ではない。だからゆとりとは無関係だが、エピソードだけ取り出すとゆとりっぽい。しかし、それはこの人が単にバカだった、機転の利かない人だったというのに過ぎない。
同じように2010年が11年頃4月にTwitterを眺めていたら、新人が備品を買いに行ったまま、4時間帰ってこなくて、さすが「おゆとり様」と揶揄されていたが、これも単にその人個人がそうだっただけで、しかも同じ会社ならまず教えてやれよ、と思うし教えてできないならその人にだって責任はある。
とにかくなんで今更ゆとり教育の話なのか特にきっかけもなく私にも不明なのだが、振り返ってみて私が思うに、たかが数年のゆとり教育ごときで人は変わらない。教育とは学校教育のことだから第一に子供は24時間学校へ行くわけではないから、親はゆとり教育とかしないし、自分はそういう教育を受けてないからできない。それは学校の先生も同じで、危機感を抱いた人は勝手に補習などをやったらしいが、そういう意識はなくても、たかが数年の実践と要項の変更だけでは、どう考えてもそれまでの蓄積が主になって授業は行われる。それでも全体的な学習時間は減ったから、やはり子供の学力は落ちた、という意見もあるかもしれないが、私が周囲を見る限り、子供はみんな塾へ行っているから学習時間は減っていない。塾業界のゆとり教育ネガティブキャンペーンによって、子供は塾に行くというのが当たり前になったように思う。だから私の子供は上の子はもう中学生だが小学生の頃から塾には通い、そのときの塾の塾長は太っていて声の高い男だったが
「意識が高いですね」
なんて私におべっかを使ってきたが、今振り返ってみると行っても行かなくても同じだった。塾長は子供だけを相手に話すときには親とのときよりも声をオクターブ下げて話す。ナミミは塾長は臭い、とよく私に話した。脇汗がすごかったのである。
だから私は今でもナミミは塾に通っているが、私も家で勉強を見るようになり、これなら次の子供は塾なんか行かせなくていいや、と思う。進研ゼミでもやらしておけば良い。私の住む埼玉県という場所はひどい場所で、業者のテストと私立高校と塾が結託して、業者テストの偏差値で私立が合否を判断する。その仲介を塾が行っていて、みんなで仲良く儲かる仕組みなのだ。だからいずれは下の子だって塾に行かなければならないが、ギリギリまで粘ろうと思う。
結論としてゆとり教育が残したものとは、物を考えない人を浮き彫りにしたということで、とにかく仕事のできない若い人に対して
「ゆとりだから」
と判断する人は、もう物を考える力が残っていない。そういうレッテルが、人々から物を考える力を奪ったともとれるけれど、私たちはとにかく考えないで済ますことができれば考えないようにしよう、と常日頃から思っていて、そんなところに「ゆとり」が流れてきたから、渡りに舟、と飛びついてしまった。だから、結局考えない人は遅かれ早かれ考えなくなるから、ゆとりとかそういうのは関係ないかもしれない。昔にも新人類という言葉もあったようだ。昔五木寛之が、
「人類が二足歩行を始めたときも、周りの人間は「最近の若い人は」と言った」
と書いていた。比喩だが。
当のゆとり教育を受けてきた人々は、そんな風に相手から見くびられて、ちょっと結果を出せば
「ゆとりなのに、やるな」
と評価され、得してしまっているのである。