意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

晩秋の蚊

ここ1ヶ月くらい一匹の蚊に苦しめられている。耳元で羽音がなる度に、父親は蚊取り装置の電源を入れたが、寒くなってくると億劫になってやめてしまった。若い頃はいちいち灯りをつけ、対象をつぶしてしまうまで神経を尖らせたが、最近では音が鳴っても手で追い払うだけで、意に返さなくなった。むしろ腕でも足でも、刺してくれればおとなしくなるだろうくらいに思っていた。だから蚊取り装置も途中からつけなくなった。装置のちゃんとした名前は知らない。父親が子供の頃、家には蚊取りマットが布団の足元に置いてあった。それは専用の、乾パンくらいの大きさのタブレットを台の上に載せ、それを熱して蚊の嫌がる臭いを出すという装置だった。寝ぼけて踏みつけると、足の裏を火傷した。寝室の八畳間のすぐ前がトイレになっていた。トイレは風を入れるために、夏にはドアを開けっ放しにしていた。遊びにきた友達に、
「不潔だ」
と嫌な顔をされた。

昨晩は娘の方も起きてしまったので、父親は蚊取りのスイッチを入れざるを得なかった。中途半端な気温の夜だった。娘は布団をはだけ、腕のあたりをかきむしっていた。彼も中指と眉間を刺された。指で刺された箇所をなぞりながら
「眉間の間、という日本語はおかしいが、そのうち誰もそんなことを思わなくなるのだろうな」
と思った。蚊が定期的に羽音を立てたが、やはり捕まえようという気にはならなかった。昔誰かが、
「蚊も越冬するんだよ」
と教えてくれた。そのときは
(蚊のくせに)
と思った。教えてくれた人は60代の人で、車をたくさん所有していた。保険代を安くするために、自らが代理店となり、複数台契約を結んでいた。しかしあるとき保険会社から、
「代理店としては、台数が少なすぎる」
と言われ、代理店の資格を剥奪されてしまった。しかし彼は保険屋ではなく資材屋だったので、とくに問題はなく、契約はノンフリート契約となった。

父親は眠れなかった。昔のことばかり思い出した。娘は装置をつけるとすぐに鼾を立てた。こんなに口が臭くて、将来結婚できるのか心配になった。妻の姿はなかった。下でテレビでも見ているのか。時計を見ると午前2時47分だった。携帯の明かりがまぶしかった。尚更目が冴えた。

自分に残された時間について考えた。長くも短くもなかった。それは、父親が今30代の半ばだから、という理由ではなく、比べる対象がないから長いとも短いとも言えない、という意味だった。覚えていることを整理した。人生の分岐点を再検証した。こんなに沈んだ気持ちで、明日以降生きていけるのかしら、と心配になったが、明日は明日の仮面をつけて生きていくのだった。

翌朝、娘が
「蚊のせいで全然眠れなかった」
と文句を言うので、
「たくさん寝ていた、日常に問題ないレベルだよ」
とはげました。前日にはカレーを食べると言っていたが、温めたものを出すと、
「パンがいい。マーガリンを先に塗ったやつ」
と気まぐれを起こしたので、カレーは父親が食べなければならなかった。とても不味いカレーだった。特に後味がひどい。妻はコタツで寝ていた。半袖だったので、肩まで布団に浸かっていた。父親は娘を送り出すと、二度寝をした。何か夢を見たようだが、思い出せない。