意味をあたえる

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シンデレラのガラスの靴が魔法の産物でないことについて

タイトルのことに書かれた記事を読んだ。靴だけは魔法で変えたものではなく、贈られたものであり、だから夜の12時をすぎてもガラスの靴のままだったとのこと、そもそもシンデレラは虐げられていたから裸足だったから、何かをガラスの靴に変えることはできなかったらしい。真偽は置いといて、私はここから作者の苦悩をかんじとった。同じ頃私は「物語とは因果である」という文章を読んだ。それによると物語のパターンとは究極的には6種類しかないということ。たったそれだけ!? と思うのが求められた反応かもしれないが、私はつまり、この6種類に分類できなければ物語として認識されないというふうに判断した。もし、シンデレラの靴が魔法の産物であるのなら、12時すぎたら魔法が律儀に解けないと、読者は物語と思ってくれないと危惧した結果の「ガラスの靴は魔法ではなく贈り物」という設定だったのではないか。その設定を読者が知っているかどうかは関係ない。作者を奮い立たせ、どうにか最後まで書ききるための、すがるために用意された「設定」なのではないか、と勝手に妄想した。

私は過去に小説をいくつか書いたが、書いているときは不安です。いや、忘れた。ブラックジャックが手術した後に、その技のあまりの鮮やかさに唖然とした客(じゃなくて、なんかその辺にいた人)が、
「き、君は一体手術のとき、何を考えているんだ?」
と問うと、ブラックジャックは、
「さあね、ヤクザのチャンバラと一緒でさァ。切って切って切りまくるだけでさァ」
と答えて、ベンチでぐうぐう寝てしまう。というのに憧れて、私も文字を並べるだけ並べるが、やはりそこに物語なんて立ち上がらない。物語とはすなわち因果、というのも併せて読んだが、私に言わせれば因果とは問い中に答えを織り込んでしまう物のように思える。例を出すとさっきのブラックジャックに対する問いがそうで、凄腕の医者の技を目の当たりにして、
「何を考えているんだ!?」
なんて質問するだろうか。やはり私には「何も考えていない、考えることは無意味」という答えが先にあったとしか思えない。そうするとブラックジャックがエスパーの類でないとすると、ペテンをしていることになってしまう。そうでなければ勘が天才的に鋭いということになり、ブラックジャックは現に天才だから、答えが先でも結局は不自然ではないのかもしれないが、とにかく昨今のストーリーは天才ばかりで飽きてくる。

それでまた小島信夫の話だが「寓話」という小説を私は読んでいるが、森敦と小島が電話で話しているシーンで不意に小島が、
「関係ない話をしていいですか?」と問い、森敦が、
「いいですよ」と答えると、小島はほんとうに関係ない話を始めた。関係ない、とは小説とか本編とかそういうのと本当に関係ないから参ってしまった。