意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

Ω

Ωって、髪型に似てますネ。と思ったが私の端末では比較的ほっかむりのようである。あるいは風船その他のようである。一時期線について考えていた。あるいは誰かが考えたことだが、線というのは内側にあるのか外側にあるのか。太い線をイメージして、中側を切っていくと、対象の見た目が変わるから、やはり内側なのかもしれない。人類で初めて絵を描いた人について突然考えてみるが、その人は洞窟にうつった自身の影を木の枝でなぞったのではないか。そしてそれが自分にならなかったからびっくりしたのである。写真と逆である。写真はすでに絵という発想が人類の隅々に浸透してからの発明なので、みんなが仰天したわけで、絵のない世界では描いたものが写真や鏡のようにならないのに、納得がいかないのではないか。

以上のことを若林奮をイメージしながら書いた。私がこのブログで度々取り上げた若林奮の著書の中で、フランスだとか色んな国の石器時代の壁画などを見に行っているからだ。もともと私は若林奮を保坂和志の「小説、世界の奏でる音楽」の中で引用されている文章が気に入って購入したのだが、こういう買い方をしたときって、その引用されていたぶぶんがどこで出てくるのかわくわくしながら読み進めていくものである。しかし、件の本は一気に三十ページとか読める類の物ではなく、昨日も同じような話をしたが、寝る前なんかに読んでいると、5行くらいで力尽きてしまう。比較的読みやすいな、と思ったのは子供時代に空襲が激しいから横穴に家族で住んでいたという思い出話で、これはやはり過去は美化されるという意味かもしれない。反対に読みづらかったのはピレネー山脈だかどこかの山脈のやはり壁画を見に行きますみたいな箇所で、そこで五行くらいしか一度に読めないとしおりを挟んだところで、また読み出すときには同じところに目をやらねばならず、そうするといつまでたっても車の窓に山の頂きが写ってばかりで一向に近づく気配がなく、悪夢のようである。私は最近はあまりなくなったが、よく金縛りにあう夢を見ることがあり、そんなときは重い体を引きずってどうにかドアのところまで行くのだが、ふっと気づくとベッドに戻っていて困ってしまう。私はだからこの夢が苦手であったが、あるときブログ仲間の昌平さんという人が、それは明晰夢という夢でうまくやれば体外離脱ができて、空も自由に、女の服も自由に脱がせられますよと教えてくれ、一時期は熱心にそういうことに挑戦してみたが、あるとき大昔の砂浜のような場所、あるいは文明崩壊後の砂浜のような場所に行き着いてしまい、いよいよそれは本当の夢であった。女性器もへったくれもなかった。もちろん昌平さんが女性器のために明晰夢に詳しくなったのではないと、彼の名誉のために補足するがこれはつまり、もし透明人間になったら女風呂に挑む、みたいなある種の定型句なのである。私は女風呂や透明人間にはほとんど興味はない。それは私の学生時代は、比較的存在感が薄かったのと関係がある気がする。それより透明人間になって知り合いのところに行き、その人が私に対して痛烈な悪口を言ったら傷つくから透明になるならよその国が良い気がするが、それならわざわざ透明にならなくても、という感じがする。村上春樹の読者とのメールのやり取りの本で、耳の不自由な女性が自分の彼氏が自分の耳の聞こえない時間に何を言っているのか気になって、内緒で録音してみたら、実はものすごい悪口を言われていて傷ついた、という内容があった。その女性は耳が聞こえる時間帯とうまく聞こえない時間がかわりばんこにやってきて、そうすると聞こえない時間の音を聞きたくなるのは仕方ないことなのかもしれない。村上春樹は「自分がいない場での自分についての話は、絶対に聞くな」と回答していた。それはニュアンスとしては例え誉め言葉であっても、ということだった。自分なりにフェアに生きているつもりの人は、他人が自分の悪口を言う可能性は五分五分であると考え、だからある種の希望を抱いてしまい、それが危ないと言いたいのかもしれない。褒めでもけなしでも、結局は同じ事だと言いたいのかもしれない。村上春樹のエッセイを読むと実に色んな人に悪口を言われていることがわかり、また別の質問で「自動車教習所の教官が嫌なやつだ」という読者に対し、「そんなの屁だ」と答えているのも納得できる。もちろん村上春樹が「屁だ」と言ったわけではなく、もっと違う言い方だったが。