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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

なんでも悲惨だ、将来がないと言っていれば格好がつく

タイトルは昨日私がつけたコメントだが、そのコメントをつける元となった記事を読みながら私はかつて子供の頃父親
「お前らの将来は暗いなあ。社会保障とか」
と言い続けられたことを思い出していた。私はそれを聞きながら「あんまりじゃないか、大人が未来の子供のために良い世の中にするのは義務なのではないか、それをあっさり放棄しやがって、じゃあなんで俺をこの世に生み出したんだ」みたいなことを思った。思わなかったかもしれない。私は死にたいとは何度も思ったが、生まれて来なきゃ良かった、とはあまり思わなかった気がする。いじめを受けたときも死のうと思うよりも、殺してやろう、と思うことの方が多かった。とにかく私はそういう風に悲観的な父を見ても、何かを言い返そうとか根拠を問いただそうとかあまり思わなかった。それはある種私は父と同格に見ている節があったからで、いくら年長者でもあまり一方的に言われるのが気にくわなかったからである。それに私は父にある種の老いというか頑固さというか、諦めを感じていた。何を言ったところで無駄だと思った。なので日本の将来が悲惨であることを素直に受け止めようと思った。そういう私の受け止め方が、私の人格形成に大きく影響したことは間違いない。親や教師は私に不気味さを感じたかもしれない。何か咎めても、「はい、わかりました」とすぐ引き下がるからである。ケンカをしたいときは誰でもあるだろうが、そんなとき相手も自分と同じように感情的になってないと非常にやりづらいのである。そういう人はとにかく嫌みっぽい人になって、私なんかは自分の子供にも嫌みを言うから情けないのである。

それでとにかく話がとっちらかって仕方ないから、読む人は詩でも読むつもりでやってもらいたいのだが、とある現実について悲惨、将来がない、と表現するのは一種の思考停止と考えて間違いない。日々の出来事に注目すると、それにポジティブな評価を下すのはかなりの教養だとか思考力が試される。しかしネガティブな評価は、素人でもできる。例えば今日も暑いが、それに対し「温暖化」「エルニーニョ」と言えばそれだけで格好がつくが、反対に「例年通り」とかいいたければ、最低でもって例年の気温が頭に入ってなければ
「そんなバカな」
と言われる。私はこれをネガティブ・バイアスと名付けようと思う。私は少子化にしてもなんにしても、ついつい「悲惨なことには間違いないが」という枕詞を使ってしまいそうになるが、これこそ保坂和志風に言うなら「奴らの思うつぼ」なのではないかと思い、将来は特に今と変わらないというスタンスをとることにした。特に他人の言う「悲惨」は真に受けるとひどい目に遭うから、十分に注意した方がいい。自分も他人も見通しを誤ったりするが、自分が自分に対していい加減なことはあまり言わない。しかし他人は半分くらいいい加減なことを言う。