意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

風景

高野文子の漫画「ドミトリーともきんす」の中で、一組の母子が登場し母親が手に持っていたケーキを遠くに持って行くと子供は泣き出すが、それはケーキが自分よりも遠くになったからではなく、ケーキが小さくなったからである、というのがある。つまり小さな子供には遠近感という概念がないからそういうことになるわけで、私はそのエピソードが好きでチャンスがあればその話を披露するが、本当にそうなのかは知らない。昨日も一歳をすぎた甥がやってきたのでそういう話をしたら、母親が
「でも一歳児にケーキなんてわかるのかしら」
なんて言ってた。確かに幼児というのはたいてい不味そうなものを食べている。私はオジヤとかが嫌いだからなおさらそう思う。彼らは歯も発達していないから、べしゃべしゃしたものばかり食べる。そうじゃなきゃ薄味である。しかし私もフライドポテトは塩のみ、といった具合にシンプルな味が好きだから、その点はわりかし同意できる。

風景というものは遠くのものほど小さく見え、小さくなったぶんたくさんのものが見えるが、これは私たちの眼球が曲面だからなのだろうか。仮に平面だとしたら私たちの視界はどんどんすぼまっていく。今朝私は並木道を車で走ったが、最初は私の行く手を阻んでいた小さい気が大きくなるに従って私のことをよけていった。その傍らに金髪のカップルがいて女のほうが車いすに乗り、それを男が押していた。二人は並木の外側の一段あがった歩道のところを歩いていたが、歩道はでこぼこしていたから、男は慎重に車椅子を傾け、ひっかかったタイヤから地面をはがそうとしていた。とにかく埼玉はでこぼこが多いのだが、それは並木の根が盛り上がったためかもしれない。コンクリートの隙間から生える雑草はとにかく茎が太くて頑丈で、素手ではとてもかなわない。昔はタンポポがすごいよ、根っこが7メートルになるよ、と教わったが、タンポポは今はほとんど見ない。タンポポによく似た綿毛を飛ばす草が会社の近くに生えていて、春先に倉庫がその綿毛にまみれるが、あれは中国の偽物のように大味で下手に吸い込んだら肺ガンになりそうだ。私の話はこれでおしまいです。

思わなかったことを書く

毎年この時期には、「読書感想文の書き方」という記事を目にし、私は数年前までは読書感想文なんて書くだけ無駄な行為だと思ってきたがだんだんと変化し、得意だった人も苦手だった人もいるが、とにかくどちらにせよそのことを文章で表現するわけだから結果的には書く行為に巻き込まれていったわけだ。私は苦手だった。私は文章に限らず、算数のようにある程度筋道立ったもの以外はみんな苦手だった。だから例えば図工で絵を描くときに、空を何色にするかなどを考えるのが苦痛だった。青と白の間が曖昧すぎるからである。読書感想文については、担任が
「思ったことを書きなさい」
と言うから、思ったことしか書けなかった。だからもし、私が誰かに
「読書感想文ってどうやって書けばいいんですか?」
と訊かれたら、
「思わなかったことを書きなさい」
とアドバイスする。もちろんそれで周りを納得させるものが書けるのかと言ったら、そうではないので、このアドバイスは誰の役にも立たない。しかしもし、生意気な男の子が
「思わなかったことでいいんだ? じゃあ昨日の夕飯のことでも書こう」
と言って、私が少し困ったような顔をしつつも特にとがめもせず、引っ込みのつかなくなった男の子がひいひい言いながら書いたら、それは読むに値するものになると思う。私はそういうのが読みたい。

私は少なくとも小学校までは本当に何も書けなかったから、親に下書きをしてもらってそれを写していた。私が唯一楽しく書けたのは収穫祭の時に、そこで出された餅をクラスでいちばん早く食べ終わったことを書いたときくらいだ。中学になるとだんだんと書けるようになって、中三のときに五木寛之の「生きるヒント」を読んで最後のほうに「人生には希望はない」と書いてあってそこから思考がどぼどぼと止まらなくなって、私はとにかく希望のない人生を生きる理由を探すことにやっきになった。そしてそれを文章にしてやろうと思って書き、二学期に提出したが全く相手にされなかった。そのときは「下ネタ川柳」を書いた人がいて、先生はその子の作品ばかり取り上げていた。その先生は若い頃はウルグアイで教師をしていて、それから六年後に癌で死んでしまった。私はそのときはとても落ち込んだが、今思えばそれはとても良い体験だったと思う。

どう良かったのかと言えば、もしあのとき「中三でここまで深いことを書けるなんてすごい」などと誉められたら、もっと誉められたくなって、やがてそれは効率が悪いことに気づき、とっくに見限っていたかもしれない。それはそれでハッピーなのだろうが、そうならなかった私は誰に見せるわけでもない文章を、連続的ではないが書き続け、今は人にも見せるようにもなった。書くというのは自分の中にある感情だとか思考を文字で再現するのではなく、書く用の特別の感情や思考を用意することのような気もする。だから私は今書いているこの文章はある意味で過去の私を裏切っているが、特にそれに対する後ろめたさはない。

冷房

私は小学校5、6年のときに少林寺拳法を習っていて、それは4年のときにイジメられていて、最初はどうにか相手との関係を改善したいと思っていたが、だんだんと近寄らないほうが効率的なことに気づき、だから距離をとるようになったらあまり因縁もつけられなくなった。今思えばそういう距離をとることの一環で始めた少林寺拳法だったのではないか。少林寺拳法の教室は市内にひとつしかなく、私の学校で習っている人は私以外にひとりしかおらず、その人も学年はちがった。私の学校の人はたいていはサッカーか野球を習っていて、特に威張っていたのはサッカーだった。私はサッカーそのものは嫌いではないが、運動部の数の暴力的なものは嫌いだった。今の会社の後輩は野球部に学生時代は属していて、それは私からすると残念だった。彼がたまに横柄な態度になるのは、野球部だったからだと私は勝手に判断した。とにかく運動部の連中は自己中心的な人が多くて嫌だ。集団が人を愚かにさせるということは早い段階で気づいた。私自身も仲良しグループに入ってしまうと声が大きくなることもおり、あとから自己嫌悪に陥った。そういう意味で少林寺拳法は孤独に慣れる第一段階だった。孤独はつらいものだが、孤独でいる限り集団を正当に見下すことができた。もちろん少林寺拳法を続けるうちに友達もできたので、つらいのは最初だけだったが。

それであるとき少林寺拳法をやっていたら、師匠の人がその日は座学の日で教科書みたいなものを読んで、しかし体育館は暑くてやがて時間になったから、
「続きはクーラーの効いた部屋でジュースでも飲みながら読んでください」
と私たちに言い、それはまるで私たち全員がいいところの坊ちゃんお嬢ちゃんのような物言いだった。しかし確か私の家にはまだ冷房などなかった。クーラーはビデオよりもさらに後に設置された。ビデオを買ったのも遅かったから、クーラーはもっと遅かった。さらに扇風機も一台しかなく、それは今も一台しかない。私の今すんでいる家は各部屋に扇風機があり、風呂場の壁にもついている。どっちがスタンダードなのかは知らないが、私はとにかく扇風機の首振りとか、風が強くなったり弱くなったりするときのモーターの音が苦手だ。ここからは私の昔の家の話だがクーラーは台所に、扇風機は居間にあった。寝室にはなにもなく、そのため夏になると窓を開けっ放しにして、寝室の北側はトイレと洗面所になっていて、部屋の中を涼しくするためには北も南も窓を開けたほうがいいから、トイレの窓も戸も、夏は開けっ放しだった。あるとき友達が遊びに来て、
「トイレが丸見えで汚い」
と言った。

逆行、縁取り

昨日の記事について珍しく二つもコメントを頂き、二つとも「二段落目が良い」という内容だった。それは私たちの人生がもし逆の流れなら、というifシリーズ的な内容だったが、あまりそんなことを考える人はいないのかもしれない。いるのかもしるない。私はしょっちゅうそんなことを考えていて、例えば、と来たところで特に例になりそうなことは頭に浮かばず、代わりに私は例えばシールとか人にもらうとそれはビックリマンシールみたいな縁も含めた四角いシールじゃなく、よくキャラクターの形に剥がれるようになっているシールがあるじゃないですか? それってしかし台紙は四角だからキャラだけ剥がすと残りが昔の漫画の壁を突き抜ける破天荒なキャラみたいに、そのキャラの形だけのシールが残っていて私はそれがいつも気になって仕方がなく、愛おしさすら感じる。部屋の本棚の側面に私のシールコーナーがあって、それは私が幼い頃母に
「ここになら(シールを)貼っていいよ」
と許可された台所の棚の側面があって、私はそこにNHKだとかキン肉マンのシールをとにかく貼りまくった。私はとにかく、シールは貼らなくては気が済まない性分で、後にビックリマンシールというものの存在を知ったとき、どうして貼らないシールがこの世に存在するのか、意味がわからなかった。台紙のぶぶんでもふれたが、私はビックリマンとはとにかく相性が悪い。

とにかく(今日は「とにかく」ばかり使う、とにかくデー)私はなんの計画性もなくにゅーしゅしたシールを貼りまくり、私は大人になった今、再びそのシールの無法地帯を作りたくてシールを貼り、そして本体よりも愛おしい「縁取り」のシールを貼ったら妻に頭おかしいんじゃないのみたいに言われた。私がシールを貼るようになると、子供が進研ゼミの使わなかったシールなどをくれた。

逆行についてはコメントの返事でもふれたが孔雀王の影響もあり、小学校四年か五年のとき私の家は初めてビデオを買って、それで土曜ワイドショーなんかで放送された孔雀王を録画し、最初は飛び降りのシーンなんかを巻き戻しで見ると面白くて、その後だんだん死者が蘇ったり、あと孔雀王の悪のボスはカイマショウゲジンという巨人だが、それは元は封印されていたのが蘇って結局孔雀とコンチェ(三上博史とユン・ピョウ)にやられるわけだが、逆再生では封印状態に戻り、封印されたままは不安だが、このままなら殺されなかった人もいるなあ、と私は思った。あと逆再生では音声が消えるので、勝手なセリフをでっち上げているうちにひょっこりオリジナルストーリーができて楽しかった。私はよく車の中で、「町ゆく人の心の声」みたいな遊びをするがこれが子供には大変好評で、横断歩道を渡る人や犬の散歩をする人のちょっとした動きに声をつけていくのである。しかし子供というのは限度を知らず、視界にはいる人すべての声を聞きたがり、私はだんだんめんどくさくなって、最後は
「あー、うんちしたい」とか、
「うんち、ぶりぶりぶりぶり」
とか、うんちばかりになるが、子供はうんちが好きだから満足した。

白い物体

白い物体が空を真横に飛んでいき、よく見るとそれは鳥であった。鳥だとすぐに判別できなかったのは、真横に飛ぶからで鳥とはもっとジグザグに飛ぶものだ。私の住んでいる地域ではグライダーに乗って上空高くまでいく人もいるから、その類かとも思った。しかしそれにしては低すぎた。あの、普通の電柱とは違う電線の親玉みたいなの、もっと正確に言うと地域統括みたいな立場の背の高い鉄塔同士が、ぶっとい電線を垂らしながらつながっている箇所が田んぼなどにはあるが、あれが私の視界の前に広がっていて、ちょうど五線譜のようであった。鳥は高いドを一直線に進み、それからヘ音記号だとか低いラだとか、とにかく急降下した。餌でも見つけたのだろう。私は前述の鉄塔の親玉みたいなのが正式になんというのか、過去には教えてもらったこともある気がするが、今はわからないから、調べてみようと思ったが調べずに書くのも一興な気がして結局今もそのままだ。

よく人の一生がひっくり返ったら、ということを考える。つまり私たちがお爺さんお婆さんでスタートして、知識はどんどん失い、体力はどうだろう? 一時的なピークに向かってどんどん早く走れるようになって胃ガンも治る。しかし後の二十年くらいはどんどん体が小さくなって語彙も絶望的だ。極めつけは学校に通って、ほとんどまっさらになる。あとは犬が野に放されるようになって好き勝手し放題、しかし周りからはちやほやされながら死ぬのだ。そんな世界がどこかにはあるはずで、考えるほど気がおかしくなるが、それが当たり前だと思えばどうということもない。

やめる練習

いつのまにかこのブログを開設して二年以上が経ち、たとえばあと十年後も同じように続けているかというと、そうでもない気が強い。そうなるとどこかでうまくやめられるように今から練習というか、準備が必要な気がする。ただやめるのに準備なんているのかという考えの人は会社を想像してみてください。私の妻は今月で今のパートをやめるのだが、それにしたって
「やめます、はい、さようなら」
とはいかない。私なんかは無責任に
「もう一生会わないのだから、死ぬみたいにひっそり消えちまえばいい」
なんてアドバイスするが、同じ島には従姉妹の同級生なんかもいるから、あまりぞんざいにはできないのである。

かくいう私も昔勤めていた会社をやめるとき、はっきり言って心を開いた人などひとりもいなかったが、やはり最後は部署内にお菓子を配ってやめ、しかもひとつでは心許ない気がして二箱も買った。女性のほうが多い部署で、大抵の人は
「ふたつどうぞ」
と言うと喜んだが、ひとりの女の人は
「ひとつでたくさん」
と受け取ってくれなかった。その人は私のすぐ隣の席だったが、「了解しました」みたいなことをわざわざメールで送ってきて、まあ形に残るのは何でもあとでトラブルが起きなくていいのかもしれないが、私には理解できなかった。余程私が嫌なのだろう、と思いそうになるが、彼女が少し病んでいるだけのことだった。私の向かいには女性が二人いて、その二人と私の左隣の病んでる女性が仲良しグループだったが、病んでる女性の反応に二人が
「???」
みたいな空気になることは一度や二度ではなかった。とにかく居心地の悪い職場だった。居心地が悪いから、最後はヘマせず無難に辞めたいと思ったのかもしれない。そこはブラックと言うほどの過酷な会社ではなかったが、とにかくみんなが忙しすぎて私に仕事の指示をする人がおらず、私は暇な日々を過ごすことが多かった。そのころ私はメールの読み間違いとかすごく多くでひとりだけ遅刻してしまった日などもあったが、大して仕事を与えられないから、ちょっと私のほうも病んでいたのかもしれない。一斉メールで、私だけが内容を理解できていなかったこともあった。今は過保護なくらいしょっちゅう上司が私の頼りないぶぶんを指摘してきて、今日の午前中も一時間近く話をした。積極的に質問すれば相手も満足するだろうと思い、
「ひとついいですか?」
という切り出しを五回くらいした。最後のほうはもう疲れてしまって生返事だった。あまりこういうのが過ぎると今度は別方向に針が振り切れるが、過保護な状況はすぐに修正がなされるから、自分がおかしくなってしまった、という自覚はあまり持たなくて精神衛生的には良い。やはりあのときはおかしかった。駅から会社まですごく離れていたが、私はバス代を節約するために辛抱強く歩いた。途中に農作物の無人販売所があった。ペット専用のホームセンターがあった。雨の日も歩いた。昼は公園でローソンで買った太い麺のパスタを食べた。そうじゃないときは社食で数人の固定メンバーで食べたが、この人たちは全員喫煙者で、最後まで馴染めなかった。私は8ヶ月くらい勤めた。

ミナイトブーツが飛んでいる

ミナイトブーツという文字の並び、音声の組み合わせが小学、中学時代に定期的に流行った。私はもちろん最初意味がわからなくて殴られた。意味がわかると今度は「ミルトブーツ」という亜種が出てきてやはり殴られた。私は長男で就学前は人の言うことを素直に受け取るタイプだったので、この手の遊びはぜんぶ引っかかった。ある朝学校へ行って後ろのドアから入ると窓際から数人のクラスメートがやってきて、ニヤニヤしながら
「1+9+3=?」
と出題され、もう繰り上がりの足し算などに目新しさを覚える年でもないから、何か変だと思いながら、
「13?」
と慎重に答えると、
「残念、一休さんだよ」
と見下すように言われた。そんな馬鹿な話があるか、と思うがこういうのを数の暴力と言うのだろうか、こういうのを家に帰って妹や弟にしたって特に弟はまだ言葉だっておぼつかないのだから張り合いがない。両親は相手にしないだろう。こういうことに関してはやはり末っ子などの長男長女以外が強い。私の子供も娘二人だが、上の子は中学で一度学級委員をようやくやったが、下の子は小三になるとすぐに立候補して他の候補をおさえて勝ち取った。こういうのを親は誇らしいと思うのだろうか? そういう気もなくはないが、実は私も小三のときやはり学級委員に立候補して、そのときも候補は複数いて、多数決となり順番にクラスメートが手を挙げ、先生が正の字を書いていった。結果は私に投票したのは私の一票のみだった。それが悔しくて悔しくて仕方がないわけでもなかったが、今でもおぼえていてやはり下の子の世界は上の子よりもずっと早く開けるのだろうな、などと思う。ちなみに私はその一年後に暮らす委員になったが、そのときはもうクラス委員の価値は地に落ちていて私は周りから推薦されてなったが、それはもうイジメの一環であった。私はその一年はイジメられて過ごした。

私が今となっては周りによく「冷たい」「ネガティブ」「人の心がない」などと言われるのは、冒頭のミナイトブーツ等でさんざん周りに騙されたせいであり、それは純粋さゆえと私は思っているが、今は今でやはり純粋なのである。