意味をあたえる

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コミュ障

コミュ障という言葉が何年か前から言われるようになって、私もコミュ障だと思う。しかし本当のコミュ障とはそれによって日常生活になんらかのトラブル、障害が起きることを指すので、嫌々であってもなんとか乗り越えられる程度であればそれはファッションコミュ障である。文字通りコミュ障には「害」がないから、コミュニケーション障害とは分けて考えるべきである。

私はそもそも人と話すのが苦手だとか長い間思っていたがそれは勘違いで、単にあまり仲良くない人とか忙しそうにとか怒ってそうな人に話しかけるのが苦手なだけだった。また私は権威に弱いから立場のある人と話すのも苦手だった。学校の先生も小学1年の時の担任が恐怖政治みたいなことをしたという影響もあったが、先生と話すのもかなり気を遣った。私は生まれつき人の顔色を見ることが多く、就学前にスイミングを習っていたときに、女の講師が水中で私を抱き上げようとしたときに私は思わず、
「重いですよ」
と彼女の筋力を気遣ったことがある。私は当時浮力というものを理解していなかったというのもあった。女の講師は、
「大丈夫よ」
と言いながら私の体をひょいと持ち上げたから私は力持ちだと思った。完全な大人になった今思い返すと滑稽だ。こういう記憶があるから実際は違うが、もし私が未就学児を持ち上げようとしたときに「重いですよ」と気遣われたら異様な気分になるだろう。顔だけが中年の赤ちゃんを抱き上げたような、人面犬に遭遇したような気持ちになるだろう。だけれどもそういう子供もいるのだ。しかし私の子供も含めて、そういう大人びたことを言う幼児にはお目にかかったことがない。それは私が親切すぎるというのもあるのではないか。私はとにかく不機嫌そうな人に話しかけるときにいつも気を遣うから、それを反面教師にして、私は心の中で怒り狂っていても、笑顔で対応するよう心がけている。そうすると実に些末な、どうでも良いようなことで呼びつけられたりするから困る。私はいつまでも社会人一年生とかではないのだから、使い走りのような扱いはやめてほしい。しかしだからといって邪険にすると彼らは自分の判断で勝手にやりだし、それがなんらかのトラブルを生み出すと、彼らは今度はケンカを始めてしまう。ケンカは別に勝手にすればいいと思うが、そうなると私は中立にならねばならず、それも骨が折れる。中立という意味とは違うかもしれないが、私の中立とはどちらにも良い顔をすることである。

それで私は今でも店の店員などの知らない人に話しかけるのが苦手で、一方で気心知れた人などにはかなり際どいことを言ったりもするのでそういう落差に自己嫌悪をかんじたりもした。しかし大人になって就職したとき、当然コミュ障の私なので事務職を希望し配属されたが、想像とはぜんぜん違って日に何件も電話をかけなければいけないし、人前で電卓を叩いて料金を計算しなければならないし、当然ミスをすれば怒られた。ところが私は意外と自分の関与しないぶぶんで怒られるのはへっちゃらであった。他人のミスなので、仕事と割り切ることができた。とにかく他人のミスの多い職場だった。それでもやはり私は机に向かって黙々と作業することに向いていると思い、そういう会社に転職したら、今度はいちいち細かいことを指摘されるのが耐えられなくて、同時に営業のいい加減さで振り回されるが嫌になって、長くは続かなかった。今も振り回されることは多い仕事だが、いつのまにか年下も増えたのでムカつくときは文句も言えるようになったから良かった。向き不向きより、言いたいことを言える環境の方が大事だ。

揺れる

山下澄人芥川賞をとったおかげで、比較的小さな本屋でもその著書を見かけることができるようになった。大きな本屋では以前から見かけた。私はまだ「しんせかい」は読んでいない。その少し前に「壁ぬけの谷」を読み終わった。本屋をあてどなくぶらぶらしていると、私は最近は電子書籍で本を読むことが多くなったので、以前ほど集中して本屋をぶらつくこともなくなった、しかし電子書籍で読み終えた本やこれから読もうと思っている本が目に入ったり、また実際に手に取ってみると果たしてそれが目的の本なのか判別が難しくなる。実物の書物の自分勝手な大きさや厚さに苛立ちをおぼえる。

文芸雑誌コーナーに文學界があってでかでかと「山下澄人」とあったので手に取ったらインタビューで何ページかいい加減に読んだ。買っても良かったがそこまで興味を引かれなかった。芥川賞が作家をつまらなくするのである。代わりにすぐそばにあった「昭和・平成の女優100選」みたいなのをぱらぱらとめくった。すると地面が揺れた。人の歩幅が地面を揺らしていることにやがて気づいたが、はて、そんなに体格のいい人なのかと思って振り返るが普通体型であった。床がもろいのである。私は大地震の前兆でもキャッチしたのかと思っていたらまた揺れた。また普通体型である。床がもろいと確信した。鉄骨の、かなり頑丈なショッピングモールの二階だと思っていたが、ところどころはもろいのである。全体がダメなのかもしれない。私はだんだんと目眩のような、船酔いのような気分になりながら、そんな状態で眺める白黒写真の女優もオツなものであった。その後肉を買って帰った。妻が不機嫌になった。

ドラマ「A LIFE」感想

録画したものを見る前に上記の記事を読み、だいたいの内容も把握していたが、それでもラストの浅野忠信の敬語には笑ってしまった。この道化ぶりがたまらない。浅野忠信はおそらく元から頭のおかしい人だったが、今は妻の病気のせいでこうなったという理屈で堂々とおかしくなっている。もし妻が健康そのものだったらもっとまともな人だ、というふうになるのかもしれないが(他の病院と提携をまとめる場で突然取り乱したりしない)、その場合は今度は義父のプレッシャーだとか、また別の理由を見つけておかしな人になってしまうのだ。そういう「妻の病気を利用しています」的なぶぶんが浅野の罪深いところだ。

ところで昨日読んでいた「モンテ・クリスト伯」でも罪が取り上げられる箇所があり、何が罪かという話なのだがモンテ・クリスト伯爵の下僕が昔にある検事を殺したと告白する。その直前に検事は箱を土の中に埋めていて、その箱を開けると中に赤ん坊がいたのだが、まず殺した理由は下僕の兄があるとき殺されたのだが、検事に犯人探しを依頼すると、下僕と兄はコルシカ島出身のナポレオン派だということで、邪険にされてしまう。検事は王党派だったのである。それに恨みを持って殺すのだが、金が入っていると思って掘り出した箱の中には赤ん坊が入っていて赤ん坊は死んでいたが、心臓マッサージを施すと程なく赤子は息を吹き返した。それで罪滅ぼしかなんかか知らないが、結局下僕と殺された兄の妻(未亡人)で子供を育てようとなるのだが、これがとんでもない悪太郎で、元から悪なのだが、親を殺した手前強く出れないでいたら、どんどん増長して手に負えなくなり、最後には育ての母である未亡人に火をつけて殺してしまう。未亡人のことは「おばさん」と呼んでいたから育ての親とは言えないかもしれない。とにかくとんでもない子供であった。子供はそのまま行方不明となった。その話を聞いたモンテ・クリスト伯は何が罪なのかというと、子供を最初に母親に返さなかったのが罪だという。父親は刺し殺したが、母は生きていたはずだからである。それは現在の定義でいうと、ひどく不自然である風であった。

ところがその後殺されたはずの検事ヴォルフィールが普通に出てきて伯爵と話をしたりするから、私は混乱してしまった。これは私の読み間違いか、作者の記憶違いか、それとも登場人物の勘違い(つまり話として織り込み済み)のどれかであるが、私としては作者の記憶違いだったら素敵だなあと思う。こうなるとこの小説はエイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」の世界で、もう生きているも死んでいるも大差ない状態で、やし酒飲みとは、主人公のやし酒を作ってくれていた職人がある日降ってきたやしの実を頭に食らって死ぬのだが、主人公がやし酒が飲みたいがために、死者の国から連れ戻そうとする話なのだが、もう途中からそんなことはどうでもよくなって、結局やし酒職人がどうなったとか、よくわからない。とにかくそういう感じの話になって面白い。

埋められた子供

再び「モンテ・クリスト伯」を読み出し、埋められた子供のくだりが出てきて、これはレヴィ・ストロースに出てくる構造というやつだろつかとかんじた。埋められる子供についてずっと前にどこかで読んだことがある。可能性としては3つ、村上龍「コインロッカーベイビーズ」舞上王太郎「煙か土か食い物中村文則「土の中の子供」のどれかか複数である。中村文則はたまたま家にあって、タイトルがそのまんまだからここにあげたが、内容はまったくおぼえていない。昔「本が読みたい」とバカ丸出しの友達に貸したら「鬱になった......」と言われ返された。私はとても良いことをしたと思った。私は極めて保守的な文学ファンだから、おいそれと間口を広げるわけにはいかないのである。そもそも鬱になりながらも最後まで読むという姿勢が文学には向いていない。「無理だ、こんなじゅくじゅくしたの、読めるわけない」と投げ出す人の方が、矛盾しているが文学に向いている。

舞上王太郎については、埋められたのは母親のような気がする。あるいは次男の二郎が幼い頃に埋められ、それが遠因となってサイコパスになった話だった気がする。埋めたのは父親で、そういうのが構造っぽい。残るは「コインロッカーベイビーズ」で、これはコインロッカーに捨てられた子供たちの話だ。私は実はこの小説は下巻のとちゅうで読むのをよしてしまった。「限りなく透明に近いブルー」もそうだが、読んでいると精子が出涸らしになっても尚性行為をしているような気持ちになるのである。まんまそういう小説なのである。それはエロいシーンだけでなく、暴力的なシーンでも含まれる。北野武が最近の自身の映画に性描写がない理由を訊かれたときに、「セックスは死とつながるから」みたいなことを答えていて、ふうんと思った。今あらためて思うと割と単純な発想だが当時は意味ありげに聞こえた。「コインロッカーベイビーズ」については、主人公が指圧で相手の眼球をつぶすシーンがあり、そのとき「パシャ」という音がした、というのが気持ち悪くて今でもおぼえている。

犯人はすぐそばにいる

男性トイレは大と小でわかれているが、小をねらうのが下手くそな人がいる。私はトイレ掃除もやるからいつも
「ああ、今日も外しているな」
と思いながら床を拭くが、たしかにうっかり飛び散ることもあるから特に思うこともなかったが、少し飛び散りすぎやしないかというのが少し前から目につき、今日なんかは飛び散りホヤホヤのまだ乾ききっていない小便があったから驚いた。いわゆる「犯人はまだそばにいる」という状態である。奇しくも今日は営業が早出でひとりもおらず、あと年がいった人も休みで必然的に犯人が絞られ、私はむしろそのことを苦々しくかんじた。容疑者が多ければ大声で「ふざけんな」「マジ引くわ」みたいなことも言えるが、これからは(もしかしたらこの中にいるのかもしれない)とか思うと腰が引けてしまう。朝礼で「もう一歩踏み込みましょう」などと注意喚起すればいいのだろうか。相手はいい大人である。私はてっきり年取った人が犯人かと思っていたが、今日の出来事でむしろ若い人がアヤシいと思うようになってしまった。確かに直径1センチ以下の飛び散りならば、がさつな人なのだろうが、私が見たのは5センチちかくあり、こうなるとただの無神経である。拭けばいいだけの話なのだ。とても大きな性器の持ち主なのかもしれない。いつも便器の右側に飛び散るから、右向きなのだ。そうすると犯人はさらに絞られる。しかし人前でズボンを下ろせなどと言えるだろうか。一方で私は自分が犯人でなくてよかったとも思っている。失敗はだいたい自分の思いもよらないところで発生するのである。

事件の何時間か前に道端に佇む人を見かけ、私は一瞬立ちションかと思った。男が前屈みになってうつむくと、だいたいそういう風に見えた。よく見る燃料かなにかを補給しているだけだった。そういえば立ちションする人を見かけなくなったと思った。立ちションと煙草のポイ捨てと、どちらが早くこの世から消えるかなどと考えたことがあったが、ポイ捨ては今でもたまに見かける。

自分が最後に立ちションしたのはいつだろうか。昔は庭でもしていた。妹もよくしていて、もちろん妹はしゃがんでしていた。入り口のそばでするから私は「恥もへったくれもないな」と思っていた。自意識など芽生えてなかったのだ。だけれども一方で私は、妹は生まれたときから自意識を持っていたような印象を持っていることに気づいた。よく泣かしたが、妹は私よりも頑丈で強い女だった。父よりも強い。ワールドカップよりもジャニーズと韓流が好きで、他の家族がワールドカップを居間で見ることを禁じたこともある。私もひょっとしたら現役のサッカー選手の名前よりも、現役のジャニーズタレントのほうが名前をたくさん言えるかもしれない。

アフター・バレンタイン

この前「100分で名著」という番組でレヴィ・ストロースが取り上げられていて、その中でクリスマスとはそもそも贈与の季節が由来であり、冬至のころには死者がやってくると言われていてそれらを宥め、もてなしたことがルーツであると言っていた。ちょうとバレンタインの季節になって、私の家族が「どうしてバレンタインがあるんだ」というから、バレンタインもそうした人間は日が短いと贈り物をしたくなる風習にのっとったものだと思い、上記のことを説明した。しかし私の家族がそんなことに興味がないのは明らかで、しかも私は100分で名著を録画したままなかなか見ないからレコーダーのハードディスクを圧迫し、ただでさえ100分で名著は目の敵にされているのである。そんな風だったので私は早口で思い切りコンパクトに、バレンタイン=贈与の季節論を展開したが、途中からみんなうんざりした顔をした。

私が初めて勤めた職場は、いつも事務所に3人しかおらず、そのうちひとりは女だったが、バレンタインにはチョコレートをくれた。しかしいくらか情緒が不安定なところもあり、不安定というかプライドが高くて暴走気味になることが多く、それを咎めると途端に機嫌が悪くなり、そういうのが2月の初めにあるとその年のバレンタインはなしになった。なしというのはつまりホワイトデーもなしで、そう考えるとホワイトデーは100%バレンタインに依存する行事で、アンフェアなかんじがする。あと、2月頭に女が不機嫌になって、あたかも有史以来、バレンタインなど存在しなかったかのように振る舞わなければならないのは、息が詰まった。チョコそのものはほしくなくとも、チョコを話題に出すと、みんなバレンタインのことを考えて気まずくなった。そういうのが少人数で仕事をするときの悪いぶぶんだった。

私は落ちこぼれだった

漢字が書ける人がすごいと思った。子供が漢字テストを持って帰ってきて、それは採点済みのものであり、いつも95点とかだからすごいと私は思った。私はいつも漢字テストは20点とかだったから、私の子供は9歳にして私を追い越してしまったのかもしれない。私がドラムのレッスンを受けたときには、先生ではない別のスタジオの人が、「先生にはかなわない、と思うかもしれないが、そのうちに特定の分野に限れば「勝てる」と思えるようになる」と言っていて、私の子供はそういうところにきているのではないか。私は暗記全般が苦手だ。でも記憶力が悪いかというとそうでもなく、とにかくいちばん苦手なのは10秒間絵を見て、そのあと絵が隠れて「何が書いてありましたか?」みたいなのだ。だから厳密に言うと私はおぼえられないのではなく、見られないのではないか、と思う。見るとか聞くとかそういうところが鈍感なのだ。ちゃんと見たり聞いたりしたことはおぼえられる。暗記は記号化すると良いという話を聞き、やってみると何かと結びつけられたものは簡単には忘れないが、このプロセスが億劫でしかたない。私はプロセス全般が苦手で、メモ嫌いもそういうところからきている。今朝も仕事をしながら、「茶色いダンボールが対象とおぼえればいいな」と思いながらぞっとした。絶対におぼえられるはずがないのに、平気でそんなことを思うのは、メモをとるのが嫌で仕方がないからだ。メモをとったらメモを書いた事実や場所を覚えなければならないから、備忘録とは厳密には忘れたときの備えではない。

全然関係ないが、自己紹介でよく「好き嫌いがはっきりしている」とか「好きなことにはいくらでも集中できるが、興味のないことにはまったく集中できない」みたいなのを見かけるが、それは極めて健全なことのように思える。私の友達がそんなことを言っていてそのときは「そんなもんか」と思っていたらネット上ではけっこうそんなことを書き込む人がいて、「これは普通だ」と思い至った。でも確かにのめり込む人はこわい。私は逆に熱中がきかないタイプで特に収集すること全般が苦手で、保坂和志村上ポンタ秀一の話をよくブログで取り上げる割に、彼らの著作物をそんなに保持していない。私は保坂和志の小説は3冊くらいしか読んでいない。小島信夫はもう何冊か読んだが、いまだに「抱擁家族」を読んでいない。これにかんしては、うまくタイミングがつかめないところがある。そう考えると村上春樹は「ノルウェイの森」は早めに読めたからよかったと思う。でも村上春樹はどこから読んでも同じか。小島信夫は「寓話」を読んでから「アメリカン・スクール」を読むと頭の中のまったく違う回路が働くから、順番はだいじなのだ。